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トイレットボウル・ラプソディ

ある日、うちのトイレが見たこともない姿に変化した。「まずい、まずい」が口ぐせの気弱な僕は、妻が帰るまでに日常を取り戻せるのか。

1.いつものトイレじゃない 

 今日は在宅ワークの日。妻は仕事に出ていて、小学生の息子はついさっき学校から帰ってきたと思ったら、宿題もそこそこに遊びに出かけてしまった。
 30分もしないうちに、息子が友達を3人連れて戻ってきた。息子は玄関を入るなりトイレに駆け込み、「もれる、もれる」と叫びながら用を足した。

 ずいぶん慌てているな。嫌な予感。子どもとはいえ来客。お客様が使う前にトイレが汚れてしまっていては困る。僕はキーボードを打つ手をとめてトイレに向かった。

 トイレのドアを開けたとたん、僕は腰が抜けそうになった。便器がはずれている。なんというか、便器というものは陶器でできたつるんとシームレスなものだと思っていたのだが、目の前にあるトイレは見たこともない異様な有様。便座カバーを載せる受けの部分は陶器で、水が渦を巻いて下水管へと誘われる部分も陶器。だけど、ふたつの陶器の継ぎ目はブリキ素材なのだ。ブリキの洗面器の底に穴を空けて筒状にし、陶器の部品同士をつないだような作りになっている。しかもブリキの筒は、かぱかぱと音を立てそうな様子で、陶器の部品とまったくかみ合っていない。

 トイレに隙間ができているって、どういうことだ。こんな状態で泄物物や水を流したら、ぜんぶ漏れちゃうじゃないか。僕はひたすら焦った。腋と顔に汗が吹きだした。僕のせいじゃないのに、妻が帰宅するまでに元通りにしておかないと大変なことになるような気がした。まずい、実にまずい。
 どうして今日に限ってこんなトイレになってしまったんだよ。修理を頼もうにも、もうすぐ夜だし、すぐに業者が来てくれるかどうかわからない。それに、息子の友達が今にもトイレを使いたがるかもしれない。こんな状態で使ったら、ひたすらトイレが汚物だらけになってしまうじゃないか。これ以上、排泄物で汚されたら触りたくなくなるぞ。

 よし、自分で直すなら今のうちだ。意を決して便器をのぞき込み、どの部分をどう接合し直せばいいのか目をこらしてみたが、接合部の構造がよくわからない。陶器とブリキの間には、いったいこれまでどうやってトイレの機能をはたしていたのかわからないくらいの断層が起きている。
 思い切って便座部分を持ち上げてみたけど、接続部分がはまらない。筒状のブリキはどこにも固定されておらず、くるんくるんと動いてしまうのだ。ブリキの部分を抱えていてくれる人がいると、すこし違うのかもしれない。息子を呼ぼうと思ったが、やめた。子どもでは無理だ。だれか大人の手がほしい。

2.便器の言い分、僕の言い分

「なあ、どうしちゃったんだよ。何があったんだよ」
 誰に言うでもなく、思わず半泣きの声をもらした僕。

「暗闇の中で汚物を受け止めるのは、もうたくさんなの。私は光と風のなかで生きたい」
(べ、べべべ、便器がしゃべった!なにこれ、トイレのストライキ?)

 もともとトイレの床にへたり込んでいた僕は、のけぞった弾みで後頭部を嫌というほど壁にぶつけた。便器はさらにつづける。
「あなたが困っているし、事情を尋ねてくれたから、私としても正直に応えるのが誠実かと思って話しているのよ」

 妙にけだるくハスキーな声質も、もう完全にホラーだ。意味わかんないけど、いいよ、オーケーだよ。トイレがこのままじゃ僕も死活問題なんだ。なにせ仕事から帰ってきたばかりの妻っていうのは、ほんとうに怖いからね。妻が帰ってくるまで、あと二時間しかないんだ。便器がしゃべる不思議はこの際どうでもいい。交渉開始だ。

「これ、どういうこと。隙間が空いたトイレなんて聞いたことないよ。よく考えてみてよ。排泄物がぜんぶもれちゃうでしょう。ねえ、君はずっとトイレをやってきたのに、どうして気が変わったの。今まで通りってわけにはいかないのかな」
「気づいたら、こういう用途で使われていただけで、私が便器に志願したわけではないの。今日は、なにか目覚めたっていうか。私はここにいるべきでないって気づいたっていうか」
「だって君は無機物でしょう。いまさら意思をもたれても困るよ」 

 なんとか便器がもとの機能を維持したまま静かな眠りについてくれないか、僕はトイレの片隅にへたりこんだまま説得のことばをさがした。

3.本質は器と管  

 少しの沈黙が流れ、けだるくハスキーな便器がおもむろに口を開いた。
「あのね、私がトイレとして使われていたのには二つの理由があるの。ひとつは密閉性のある器の役割。もうひとつは排出機能のある管の役割」
「ちょっと待って。何の話だろう」
「あなた、頭が堅いのね。本質を見て。あなたは私のことをトイレとか便器とかいうけれど、あなた方がここで用を足すためには、私にどんな機能が備わっていなくちゃいけないかっていう話よ」

 どう考えてもおかしい。在宅ワーク中の僕が、なぜトイレで便器と禅問答をしているのか。息子と友達の声は聞こえなくなってしまった。外にでも遊びにいってしまったのだろうか。しかし、便器のいうことはもっともだ。トイレとして機能するには、汚物をもらさず受け止める器の機能と、なおかつそれを溜めたままにせず外に排出する機能が必要だ。
「わかった。二つの機能は君のいう通りだね。それで?」

 自己紹介が遅くなったが、僕は心理カウンセラーという仕事をしている。今日はあらかじめ予約が入っている数人のクライエントとの在宅リモートセッションの日なのだ。そうだった、僕は心理カウンセラー。無茶苦茶なことを言ってくるクライエントには慣れている。そうだよ、いつもの調子で聴けばいいんだ。身体をひらいて、便器の語りに耳をかたむける。

「あなたも仲間よ。あなたの器の中に、人々は抱えきれないものを吐き出すでしょう。一方のあなたは、それをよそにぶちまけたりしないわね。守秘義務があるもの。そして吐き出されたものは、いつまでも抱え込んだりしないことになっている。次のお客が来るまでには管から排出して、器には残しておかないでしょう。ね、私はあなたなのよ」

 僕は、便器の語りがなかなか深い真理をとらえているような気がして身じろぎもせず黙っていた。ぼくが便器だとして、その器が分離して隙間ができているってことは、受け止めることもできなければ、守秘義務も守られないってことだ。カウンセラーとしてはおおごとだ。それに、管からうまく排出できなくなれば、前の人が吐き出したものがいつまでも残っているわけだから、そこに追加で吐き出してブレンドされちゃってもかまわないってメンタルの人は、そもそもカウンセリングには来ないかもしれないな。ちょっと妄想が過ぎて、うぷっと気持ちが悪くなってしまった。

4.何かのための私じゃなくて

「もう、器と管の役割を返上しようかと思っているの。ただ、それだけ。それが、今なだけ」
「ねえ。君がもうトイレの役割をしたくないのはわかった。でも、この家にはやっぱりトイレがひとつ必要なんだ。その件に関してはどうしよう。君とは別の便器に取り替えるってことでいいのかい」
「いいの?お役目終わりってことで。うれしい。外に出られるのね」
「でもさ、リサイクルされたらどんな物になるかわからないよ。次もさらなる苦役かもしれないし。それかクラッシュされてさ、河原に不法投棄されるかもしれないよ」

 僕は、自分たちの排泄物の行く末よりも、この便器の行く末の方がちょっとだけ心配になってきていた。
「いいのよ、もう。なにか役に立つような物にならなくても。ずっと人のために仕事をしてきたから、次は何のためにも使われたくないの。私が私でいられたら、形や居場所にはこだわらないわ」 

 なんだか、とても歳をとった人と話をしているみたいだ。この便器がもういいというのなら、尊重してやらねばならない気がする。便器が他の役に立つものにリサイクルされてしまわないように、どこか安全なところ、ただ便器が「在る」ことができる場所に移してやりたい気もしてきた。なんということだろう。僕は、このけだるくハスキーな便器に情を感じてしまっている。

5.妻と息子の帰宅

ピンポン。ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴り、妻と息子の声が聞こえてくる。僕は書斎にあるマッサージ椅子でうとうとしていたようだ。
「ねえ、パパ。いるなら鍵を開けて。こっちは買い物してきて両手がいっぱいなのよ、もう」
 すでに妻のスイッチが入っている。まずい、まずい。妻はぶつぶつ言いながら、ぱんぱんに膨らんだエコバッグを二つ抱えてリビングに入ってきた。
「パパ、寝てたでしょう。何回もピンポン鳴らしたけど出ないんだもん。ママが帰ってきてよかったよ」
 息子はそう言いながらトイレのドアに手をかけた。まずい、まずい。まだ便器の件の落とし前をつけていなかった。なんで寝ちゃったんだろう。なんとかして先にトイレに割り込もうとする僕を怪訝な表情で見上げる息子。
「え、パパもしたいの。ずっと家にいたのになんで今なの」

6.いつものトイレだけど 

 あれ。便器が壊れていない。いつもどおりのつるんとしたフォルムだ。ぼんやりした頭に急激に血流が回復し、ついさっきまで自分の書斎で夢をみていたのだと悟った。便器のけだるくハスキーな声と、「いいのよ、もう。なにか役に立つような物にならなくても・・・」という最後のことばが妙に生々しく残っていて、にわかに夢だとは信じがたい。

「ねえ、パパ。流れてないし」
 息子の指摘にはっとして便器に目をやると、ふやけたトイレットペーパーが詰まっている。まずい、まずい。大きな声で言うなよ。幸いなことに、冷蔵庫に顔を突っ込んでいる妻には聞こえていない。

「流れるかな。なんか、こんもりしてるよ」
「ああっ。待てっ。慎重にやろう。あふれたらまずい。そーっとだぞ」
あらためて便器にストライキされたらどうしよう。夢じゃなかったらどうしよう。にわかに鼓動が早くなる。

「いつもお役目ご苦労さまです。ありがとうございます」
 思わず口をついて出た。手も合わせてしまった。成仏してくれ、頼む。タンクの水が勢いよく渦を巻いて便器に流れ込み、水位がぐんぐん上がってくる。おおお、まずい、まずい、あふれる。いけるのか、流れるのか。

「今日もお疲れさまです。いつも助かっています」
 もう一丁、ねぎらいとエンパワメント。どうだ。

ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴゴウ。

 ふだんの10倍くらいの時間をかけて、僕が詰まらせたトイレットペーパーと水は渦を巻いて穴の奥へ消えていった。ものすごい達成感と安堵感で、いまにも腰が抜けそうだ。

「パパ、おかしいよ。ねえ、早く出てよ。もれる」
 トイレから押し出された僕は、たぶんちょっと口元がゆるんでいた。

 妻はいつのまにか部屋着に着替え、忙しく夕食の支度をしている。
「お疲れさま。帰ってきてすぐに夕飯の支度、たいへんだよね。洗濯物を入れておくね」
 いつもは出ない言葉がするりと出た。鼻歌まじりにベランダへ向かう僕。妻はフライパンを持ったまま、半身をキッチンから乗り出して眉根をよせている。

 ベランダに一歩出たら、かすかな虫の音とひんやりした静寂が僕をつつんだ。そうだ、あのけだるくハスキーな便器は、長年お世話になっているカウンセラーに似ている。そういや、しばらくカウンセリングを受けていない。そろそろ、会いにいく時期か。

今日の、夢の話をしよう。

(完)

「どんなことでも、なんとかなる」「なにごとにも意味があり、学ぶことができる」という考え方をベースに、人の心に橋をかける言葉を紡いでいきます。サポートいただいた場合は、援助職をサポートする活動に使わせていただきます。