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暇と退屈の...

今日は朝寝坊をして、昼過ぎから大学に向かった。恋人と遅めの昼食をとって、アトリエに行く気も起きずだらだらとしゃべっていた。

恋人は相変わらず将来の不安に悩まされていて、さらに昼間ずっと眠くて、あまり活動もできないみたいだ。楽しい時は楽しそうにしているのだが、そうでないときは「虚しい…」「人生とかカス」とか言って、落ち込んでいる。

つまり、常に楽しくない日々があって、時々楽しいことがあって浮上するのだけど、すぐに沈んで行ってしまうような。私は人生など楽しくないのが当たり前で、それを肯定的に受け止めていくものだと思うのだが。娯楽だけの人生などつまらないと思うのは、私が奴隷化されているだけなのか。

今日は「暇と退屈の倫理学」を読み始めた。以前から読んだ方がいいと思いつつも、機会が無かったのだが、母が仕送りと一緒に買って送ってくれた。

私は最近、「なぜ社会は便利になったのに、『現代人は時間がない』なんて言われているんだ?」という疑問について考えている。「暇と退屈の倫理学」は、高校時代に国語の教科書で読み、その時のぼんやりとした記憶では、「暇が搾取されている」と言われていたような気がする。教科書は本を切り取って掲載したものなので、その「暇が搾取されている」ということが、一冊の中でどのような位置づけの意見なのかは分からない。しかし、「暇が搾取されている」というのには納得する。

ふつう、「搾取」されるのは、労働力やお金などの、ある人が持っているべき資本であり、余暇とはむしろ搾取されなかった部分、その人が自由に使ってよいもの、という意味あいで理解されている。しかし、この本ではその「暇」さえも搾取されている、というのだ。

私は退屈だったり、暇だと不安になる性格だ。何か予定や、目標があれば、人生を豊かなものにできると信じている。しかし、この本は「そうではない」可能性を示してくれるのではないか、という予感がある。

なぜそれに期待するのかといえば、私は、余暇を愛し、同時に将来が不安な恋人に対して、何か価値のある言葉を言えていないからだ。私が「目標を持て」「暇をつくるな」と言ったところで、恋人にはたぶん一ミリも響かない。この本を読んで得るものを、恋人にも分け合うことができるのではないか。そのような期待を持ってこの本を読むのである。

読んだ後には感想のnoteも書くつもりだ。いつになるかは分からないが、感動が冷めないうちに、勢いをつけて読みたい。


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