YOUR/MY Love letterとシャニマスに感謝を込めて

 私は、シャニマスは「ただ在る」という様を描き続けてきたと思っています。否定や肯定の前にある状態、その人がただ存在しているという重み、そんな存在が連なって成している世界の豊かさを描き、その上で誰かの想いの尊さや人と人が交われる瞬間の喜ばしさを肯定し続けています。しばしばシャニマス評として言われる"解像度の高さ"や"実在感"といったものも、この「ただ在る」を描くための手段であるし、シャニマスがしばしば取り扱う「消費」や「物語」、「社会性」といったテーマもこれを根としているとも思っています。

 この世界にはたくさんの人がいて、どうしようもなく繋がっている。それぞれがそれぞれに生きて、時に社会に溶け、消費し、また消費される。その前に、ただ在るということを受け止めておきたい。star n dew by meやストーリー・ストーリー、天塵海出さざなみの一連の流れetc……そういった在り方は様々な形で示され続けてきました。

 人間心理として、何か得た知識や感想、気付き、想い、自分が手に入れた様々なものたちには、何か立場を与えてやらないとどうにも落ち着かなかったりします。肯定するのか否定するのか、自分なりの心の引き出しに振り分けていく。そうして自分自身の立場を作っていく。また時として何かを評価することは、何かのレースのように競われることすらあります。

 しかし、肯定か、否定か、何かしらの立場に落ち着いた瞬間には取り零してしまうものがあるように思えます。それは肯定されるか否かによって決まる、それだけの価値なのでしょうか、私はその立場を守るために話していないでしょうか。

 そんな心配りに対してやってあげられることが、「ただ在る」だと思います。肯定する前に、否定する前に、それが唯々存在しているだけのことを受け止める。引き出しにしまわなくてもいいんだという気付き、それこそが「ただ在る」ということだと。そうして、独立して生きるのだと。アイムベリーベリーソーリーは、その上で成される様々な交換(愛・自己・生と死・仕事)の尊さを伝えてくれました。

 私は世界の複雑さ・豊かさを受け止めた上で肯定を返そうとするその姿勢に感動してきました。ただ、これほどに示されていながら、自分にも名前があるということは意識の外に追いやってたように思います。しかし今回、Y/MLLでは、私もまたただ在る1人であると、世界に受け止められていられる1人であると言われたのです。直接の名指しではなく、アルストロメリアからの名前を教えてほしいという確かな呼び掛けは、私に様々な内省をもたらしました。私が私を呼ぶ声を出させてくれた、そのことに感謝の意を表します。実名で送ることは出来ませんが、せめて10年以上にわたって愛用してきたこのハンドルネームを代わりに添えて、シャイニーカラーズへ、ありがとう。

てーへん

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