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“手紙を書くこと”について、考えていること。

こんにちは。手紙寺 発起人の井上です。

先日は、手紙寺に込めた私の想いについて投稿しました。

その中で、手紙を書く相手は亡くなった方でいい、むしろ、亡くなった人に宛てるほうが素直になれるかもしれない、というお話をしました。

今回は、亡き人へ手紙を書くことについてもう少し考えてみようと思います。

手紙は「さよなら」と向き合う時間になる。

私が大切にしている言葉の1つに、こんな言葉があります。

「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」
井伏鱒二『厄除け詩集』より

この言葉を知ったとき、私は大きく共感しました。

生きていれば、出会いも別れもたくさんあります。

素敵な出会いは、人生をとても豊かで楽しいものにしてくれますし、誰もがそんな素敵な出会いに感謝するでしょう。

一方で別れというのは悲しく辛いもの。大切な家族や友人、恋人との別れなんて考えただけでも苦しい気持ちになります。

しかし、卒業や移転など、人生に別れの機会は何度もやってきます。

そして、命の終わりという別れは避けることはできません。

どんな人にも別れは必ずやってくるのです。

いま、そばにあるもの、そばにいる人が、ずっとそのままでいることはないのだから。そういう意味では、私たちの人生には最後は別れしか残らないのかもしれません。

さよならだけが人生であるなら。

私はもっと「さよなら」を大切にしたいと考えています。

別れの悲しみに深く潜り込み、受けとめ、亡き人に語りかける。

そうすることで、ただ日々を悲しみに暮れて過ごすのではなくて、

また前を向いて生きていく力を取り戻すことができると思うのです。

そんな風に「さよなら」と向き合うことも、手紙寺にはできるはずだと考えています。

「お墓参り」と手紙は、似ているかもしれない。

手紙を、別れたあの人に宛てて綴る。手紙を綴ることで、その人を通して自分自身と向き合い、対話する。

そして、手紙を書き終わったとき、悲しみや悩みはすこしでも軽くなり、前向きに生きることにつながる。

まるでそれは、お墓参りに似ているように感じます。

お墓参りは、お墓の前で手を合わせて亡き人へ語りかけます。

それと同時に、自分自身のことを伝え、相談したり、素直な気持ちを打ち明けたりする。亡き人のことを想うと同時に、自分自身と向き合う。そして、いつしか、亡き人から自分が想われていたのだと気づくことができる。

私は、成田空港に行って手紙を書くときも、病院へ行って手紙を書くときも、実はお墓参りと同じ体験をしていたのかもしれません。

ふたつの「さよなら」は悲しいものでしたが、そこを訪れ手紙を書くことで、別れと向き合い、自分自身と向き合い、その空間が特別なものになりました。

いつもは決まったときしか、お墓参りには出かけないかもしれないけれど、手紙を書くことでも同じように亡き人を思うことができるはず。

ぜひ手紙寺を訪れた時には、今は亡き大切な人を思って、手紙を綴ってみてください。きっと、あなたのこれからを照らす光になるはずです。

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井上 城治 | 手紙寺 発起人
1973年生まれ。東京都江戸川区の證大寺(しょうだいじ)住職。一般社団法人仏教人生大学理事長。手紙を通して亡くなった人と出遇い直す大切さを伝える場所として「手紙寺」をはじめる。趣味は、気に入ったカフェで手紙を書くこと。noteを通して、自分が過ごしたいカフェに出会えること
を楽しみにしています。



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