『黙殺』を読んだ。

もう10年以上まえの話になるが、会社の先輩と呑んだとき、「この前の選挙には行ったのか?」と聞かれたことがあった。ぼくは「誰に投票したのか」と尋ねられるのを避けるため、「行きましたが、自分の名前を書いて入れました」と答えた。先輩は烈火のごとく怒り、「誰に入れてもいいが、ふざけるのはやめろ」とぼくを叱りつけた。

『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』を読んで、先輩が怒った意味がわかった。どんなことでも「挑む人」を、軽んじるべきではない。

『黙殺』で描かれているのは、無頼系独立候補の人たちの生きざまだ。
無頼系独立候補とは何かというと、大きな政党の推薦やあと押しに頼らず、限りなく個人の力で選挙に立候補する人たちを、この本ではそう呼んでいる。端的にいうと「マック赤坂みたいな人」のことである。

実際、この本はマック赤坂がどういう人物なのかというところから始まる。マック赤坂に割かれるページが多いので、著者はどれだけ彼のことが好きなんだよ! とツッコミたくなるが、やがてマック赤坂にもマック赤坂なりの苦悩と目的意識があって、奇抜な言動をとっていることがわかってくる。

それは、売名行為金持ちの暇つぶしなどとは無縁のものだ。

著者の畠山理仁氏は、マック赤坂のような、いや、知名度ではマック赤坂の足もとにも及ばない無頼系独立候補たちを紹介すると同時に、候補者という意味では同じ立場なのに、新聞やテレビでは「主要候補」とそれ以外に分けて報じられるのはおかしいという。

たしかに、政治経験がなく初めて立候補する場合でも、芸能人や政党の推薦を受けた人たちはメディアの扱いが大きい。「候補者は平等に報じるべき」という考え方がある一方で、「表現の自由」でメディア側があらかじめ「受かる可能性のある候補」と「そうでない候補」とをわけてしまうのってどうなの? というわけだ。

もちろん著者・畠山氏は、彼らに必要以上に肩入れしているわけではない。
ここは畠山氏の矜持をあらわした部分だと思うので、引用しておく。選挙最終日が終わったあとの場面だ。

「ビール飲もうか」
 マックの掛け声で私たちは目の前にあった焼き肉屋に入った。私は注文とともに自分が飲む1杯分のビール代をテーブルに置き、ビールが運ばれてくると一気飲みした。

取材対象者と呑み屋に行った時点でどうなんだという見方もあるだろうが、著者のスタンスはわかる。あくまでも彼ら無頼系独立候補の主義主張に飲み込まれてしまわない範囲で、彼らを見ようというのだ。

なるほどと読みすすめていくと、候補者の1人が語る「(被選挙の)権利を行使しているだけ」という言葉にハッとなる。彼らもまた、ぼくらのすぐ近くにいる人間なのだ。

伝わりづらい表現になるが、この『黙殺』には、ドキュメンタリー映画『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』を観たときと似た読後感があった。メディアから見放されようとも、必死でもがいている人たちは、どこか美しい。

※上のマック赤坂氏の写真は、ぼくが撮影したもの。

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