見出し画像

まちがえても突っ走るしかない人たちが出てきた

つくづく、まちがえられない社会だな、と思う。

まちがえて会社を辞めた身なので、より強くそう思うのかも知れない。
まちがえることを恐れる。指摘されることを恐れる。だから、選べない。

「マンガの内容を解説する」動画がある。マンガを読むのとそんなに時間は変わらないと思うのだけど、まちがえたくない人たちは動画を見る。選んでくれるし、見方を教えてくれるからだ。人生に、まちがえているヒマなどないのだろう。

まちがえられない社会は、まちがえても突っ走るしかない人たちを産み落とした。具体例は挙げないけれど、いろんなことに当てはめられる。まちがえられないので「これが正解」だと言い切り、信じるしかなくなっている。

もしかすると、異性愛者でありながら異性を執拗に攻撃する人は、フラれ慣れていないのではないかと思うことがある。まちがえないように生きてきたので、フラれることもなかった。結果、相手のことがよくわからなくなった。だから自分なりの正解をぶつけようとする。

田舎で生まれ育った自分からすると、都会までムラ化したかのようで、息苦しいというか、万事めんどうくさい。

10年以上前、会社を辞めてひとり立ちしたとき、せめて軌道に乗るまで実家で暮らす両親に黙っておこうと思っていたのだが、近所に住む親戚のおばさんがネット検索で知り、親に教えた。地獄だなと思った。ムラ社会だ。

ムラでは通りに人はいないのに、ちゃんとお互い見張りあっている。

田舎に住んでいた子供の頃は、いずれ田舎も都会のように他人に無関心になっていくのだろうと思っていたが、都会に住んでみたら、都会が田舎のようになってきた。

2020年は「コロナ禍」で人と会う機会が減った分、ネットでの相互監視が強まって、その流れが加速しているようにさえ感じる。

デジタルネイティブ世代の人たちにとっては「都会もムラ」が普通なので、おっさん世代ほど息苦しく感じてはいないのかもしれない。

でも、だからこそ「まちがえた! もう終わりだ!」という思考に陥るのかもしれない。

「かもしれない」が2回つづいた。

まちがえた人に向かって怒っている人がいたら、自分は怒らなくていい。加勢しなくていい。

僕は自分がまちがえた時のために、とっておく。どうせまた、まちがえるから。

とりとめのない話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?