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【感想】映画「グラン•トリノ」

グラン•トリノという映画があります。私のかなり好きな映画の一つで何回か見ている映画なので、ちゃんと書き残そうかなと思った次第です。以下ネタバレ注意です。

 初めはクリント・イーストウッド演じるコワルスキーの妻の葬式シーンから始まります。コワルスキーは口の悪い元軍人であり、息子達や孫達の態度や今時のチャラチャラした格好に悪態をついています。コワルスキー目線では彼等はしょうがない身内共ですが、息子達の目線だと独り身で心配ではありますが家族の言う事を聞かない「頑固親父」であり、除け者状態です。
 一方コワルスキーの隣に住むモン族は身内で結婚式を行っています。皆が結婚のお祝いをしている中、一人皿洗いをしている内気な少年タオも、姉を除いて将来を期待されてない除け者でした。葬式という「死」と結婚という「生」という対立構造を用いながらタイプの違う二人の主人公の共通項を引き立てています。

 タオは散歩中(?)にゴロツキに絡まれます。これを同じモン族の親族がいるギャングに助けられてしまいます。物語を最後まで見るとまるでこのギャング達が悪者に見えますが、タオが自らの力でゴロツキを突破出来なかった弱さがこの物語を生んでいます。彼等はタオに借りを返してほしかった(モン族は見返りを求める風習がある)のが過剰なまでエスカレートしたようにも見ることができます。モン族のギャングはモン族の持つ元々ある風習が悪い方向へ行ってしまったのでしょう。そしてタオも借りを返そうとして、または絡まれるのが面倒臭くてグラン・トリノを盗みに行ってしまいます。これが皮肉にもコワルスキーとタオの出会いとなります。
 また、コワルスキーはタオやスーを成り行きでギャングから彼等を助けますが、コワルスキーは見返りを求めません。しかし、モン族は「助けられたらおもてなしをする」ため、食料をあげたり、パーティーに誘います。コワルスキーは面倒臭そうでしたが、モン族の方が意地っ張りなので渋々受け入れていきます。タオやスーはモン族の光の部分を見せてくれます。彼等のおもてなしの交流および自分の死期が近いことから、コワルスキーは精神的に丸くなっていきます。

 コワルスキーはモン族の「悪い事をしたら罪として働く」風習があるため、タオに目の前のボロい家を修理させます。この風習があると、確かに「働く事が悪い事」という認識を与えてしまう側面はありそうです。その内に、タオを一人前に育てるために修理方法、町の人達との付き合い方、仕事のアテの紹介、さらに修理道具を買い揃えてやります。タオは飲み込みが早く、教えた事を守りながら自信もついてきました。しかし、ここでタオの親族がいるギャング達が報復に現れ、修理道具を破壊されてしまい、タバコを顔面に押し当てられてしまいます。これを知ったコワルスキーはギャングに報復しに行きます。この行為はコワルスキー視点では「正義の代行」のように見えますが、ギャング達の行動とやってる事は変わりないです。どちらも「暴力によって自分のシマを荒らされた」という認識でしょう。

 そして最後はコワルスキーとギャング達の戦いになります。コワルスキーは神父の前で今までの人生の懺悔をしますが、不倫をしたこと、脱税した事、無数達との距離がわからなかった事を詫びます。どちらかというと神様というより妻に対して懺悔してるかのような内容でした。そして報復し返そうと血気だってるタオを地下に閉じ込め、戦争で体験した人殺しなんで最悪だったと語ります。今までは「お前らみたいな奴らを戦争で殺しまくった」みたいな発言をしてたので誇りに思ってたとかと思いきや、その逆でした。
 そして最期は自ら暴力を振るう事なく、自らの命を使い、警察を使ってギャング達とのケリをつけました。今まで誰にも頼らずに自分一人でやってきた男が最期は誰かに任せるという風にも解釈できる素晴らしいストーリーでした。

 終わりのシーン、グラン・トリノをタオに譲ります。友達だからというのはあるかもしれませんが、金の為に欲しがる孫よりも自分の宝物を大事に使ってくれる人に預けたかったのかもしれません。

 この物語は風習による長所と短所、手段を暴力に頼る愚かさ等、生きるのに大切な事を色々教えてくれます。英語のスラングだらけの会話ですが、私にとって大切な映画の一つとなりました。

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