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冬日(とうじつ)第7話

第1話はコチラから

覚悟を決めるのに時間が掛かったのも事実だが、医師の厚意に甘え続けるわけにもいかない。

その日は晴れ上がっていて、広場には一面の雪が広がっていた。

開放的な空気を求め、彼女に広場へ出ることを提案した。
彼女は喜び、患者用の着衣のまま軍支給のダウンを着こむ。

きれいな青空だね、と彼女は言う。

同意して、それでも上の空だったのかもしれない。
彼女は気付かないのか、気付かない振りをしているのか、空を仰ぎ見ている。

それで、と彼女が続ける。

記憶が消えればあなたのことも忘れるんでしょう。

そう、と答えるしかなかった。
彼女は気持ちよさそうに空を見上げたままだった。

仕方ないか、もう元に戻れる気がしないし。

さらっと言いのけ、澄んだ日差しを体いっぱいに受ける。
横顔を、目に焼き付けていた。
どちらにしろ、彼女を失う。
しかし、彼女は生き続けることができる。
ねえ、と急に俺の方へ向く。

一緒に逃げようよ。

しばらく息が止まったように思えた。
もし、ここから逃げ出せたのなら。
この世界に別れを告げ、二人だけで。

なんてね、冗談。そんなの無理だよね。

無言の俺に見切りをつけ、彼女が会話を引き取る。
逃亡は、抑圧側に回されることを意味した。
過酷さは比ではない。
彼女を失う可能性でいえば最も高い。
現実的でないことを分かりながら、俺も繰り返し夢想はしていたのだった。
そして彼女は再び空を仰ぎ、こう呟く。

こんな世界、潰れちゃえばいいのに。

日差しに目を細め、爽やかな笑顔を見せながら、涙がひとしずくこぼれる。その跡を拭い、彼女が続ける。

あなたと見る、最後の光景かな。

おそらくその通りだった。
戻れば滞りなく処置に入る。

せめてこの光景だけでも憶えておきたい。
とても綺麗で、でも残酷なこの世界にピッタリ。

彼女はそう言い、悪戯っぽく笑う。
それから、俺の顔を覗き込む。

戻ろうか。

処置室までの間は無言だった。
看護師に促され処置室に入る。
間際に軽く手を握り、それが最期の挨拶だった。

***

昨日は室田と飲んで帰ったから、今日は真っすぐ帰ることに決めていた。
妻である由紀は飲んでくることに関して寛容な方ではある。
しかし、そこに甘えすぎることのないよう、山下は自らを律しているつもりだ。
高枝の面倒を見つつ自分の仕事を捌き、定時を一時間ほど回った。
「今日は早く帰ってやれよ」
室田のその一言で、山下は上がることにした。
室田さんは、と聞き返すと、もう少しやっていくと言う。
なんでも、自壊の件で引っ掛かることがあるらしい。

そうでなくても、と山下は考える。

そうでなくても、室田さんは労働力である彼等の人権を気に掛けている。
(続く)
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