冬日(とうじつ)第9話(最終話)
ふうん、と由紀は案外気のなさそうな返事をする。
「あれ、チョコ苦手だっけ」
「ううん、いや、チョコレートをあげる日って」
「そう、大昔の行事だよ」
ふうん、と、袋の中を暫し見つめる。
「悪くないわね」
気もそぞろな返事に山下は違和感を覚えつつも、由紀がそのまま風呂へと促す。
「お風呂はもう入ってるから。たぶん温度も大丈夫」
「そうか、ありがとう。そのチョコ、先に食べてなよ」
多分遠慮して山下を待つかもしれないから、とひとこと背中を押しておく。うん、と答えた由紀は、袋の中を見つめたまま、台所に向かった。
***
チョコレートは、嫌いじゃないけど今までも変な気がしたりして、なるべく避けてきた。
でもそんなの、変な女に思われたくないから彼に言ったことはない。
それにチョコパフェとかチョコケーキとか、そんなんだったら大丈夫なんだ。
だから、大したことなんてないと思ってた。
でも、彼がさっき言ってた『チョコレートをあげる日』って。
チョコを食べたわけでもないのに、いつもの変な感じがした。
だから、彼の言葉もよく入ってこない。
分からないけど、いいことじゃないかもしれない。
だから何となくいつも避けてきたのに、その時思った、知りたいって。
この変な感じの正体が分かる気がした。
いつもは変な気持ちのままで止まってたけど、『チョコレートをあげる日』っていう彼の科白がいつもより深い何かを突き動かして、あとは多分、チョコレートを食べれば。
台所で、私は包装紙を外す。
正方形の箱が現れ、その蓋を開ける。
小さな仕切りで区切られたチョコレート達。
普通の女の子なら『わあ、かわいい』って声を挙げてかわいく見せるだろうけど、変な気持ちが邪魔をしてかわいい振りもできやしない。
甘い香りがふと鼻を過る。
何かが見えた。
変な気持ちを突き破って、その向うに何か見えた気がしたんだ。
それを私は望んでいいか分からないけど、止まる気もしない。ていうか止まれない。
大きくひとつ、動悸がする。
どうしよう。
そんなことを思いながら、それでも目の前のチョコレート達からどれかを選ぼうとしている自分がいる。
もう自分じゃないみたい。
そして、最もシンプルな見た目のチョコレートを手に取る。
何の飾りもない、つるっと茶色いチョコレート。
硬い表面に閉じ込められた甘い香り。
また何か見えた。
私だ。
私がいた。
でもなんでだろう、あれは私じゃないって思う。
また大きく動悸がする。
しかもだんだん早くなっていく。
どうしよう。
チョコレートを口に運ぶけど、指が震えてる。
本当にいいのかな。本当に。
口に頬る。
甘い香りが鼻腔を満たす。
そして私は目を閉じるー
残酷なほどに晴れ上がった空。
凍てつく空気。
容赦なく刺さる日の光。
目を潰すほどに眩い、一面の白。
とても綺麗で、でも残酷なこの世界にピッタリ。
そう言い放つ私は、この光景の中でずっと私を待っていた。
そして、解放された私の記憶が意識を満たす。
どれくらい経ったのだろう。
統合されていく記憶のうちで、いびつに重なる部分が見える。
本来の記憶と植え付けられた記憶の競合。
そこから先、今に続くまでが失われた時間とするならー
少なくとも五年。
あの人はまだ、あの光景の中にいるのだろうか。
ふと山下の顔が過る。
ごめんなさい。
でも私はもう、あなたの知る私じゃない。
それから私はあの光景を思い浮かべる。
行こう、あの人の元へ。
そして今度こそ、新しい世界を切り拓く。
***
風呂から上がり、頭を拭きながら山下が居間へと移動する。
台所にはチョコレートが箱を開けられたままで、ほとんど食べていない。
「由紀」
どこに行ったんだろう。
味噌でも切れて買いに行ったのかな。
そんなことを思いながら冷蔵庫から発泡酒を取り出し、ソファに座り栓を開ける。
喉を鳴らして流し込む。
一日の疲れが癒されていくのを、しみじみと感じるのだった。
(了)
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