四月の怪物

 四月には怪物がいると言い、しかしその実態はだれも知らない。


 『四月』に『いる』とはどことなく時空を捻じ伏せるような響きを含み、そもそも誰が言い出したんだと問い質してみても埒は開かず、ひとまずはここから始めてみるしかないのだろう。

 さて、四月と言って怪物と言うからには、何かしら四月に所以のある何かしらが、どうにかするかされるかして異形化したものなのか。そんなものを想像してみる。


 例えば桜。


こちらを異形とするのならば、桜を成す巨木がそのまま歩きだし、幹の真ん中あたりに顔らしい切れ込みが入りながら人を襲うのか。おそらく樹の下には死体が埋まっているなどと悠長なことを言っていられなかったのだろう。

 もしくは花弁そのものが巨大化し、これに筋骨隆々とした手足をつけ、雌蕊と雄蕊が混在する辺りに口を設けて、やはりこれも人を食らう。ただしこちらは桜の木につく花の数だけ出現し、大軍を成す。

 どちらが良いか。

 その不毛な問いは、単純でいながら途轍もなく不明瞭でもある。それは単純と言わず言葉が足りないだけで、つまり何を基準としてどちらを選ばなければならないか、ということである。

自分が被害に遭うとして、と言うならばどちらも御免被りたい。そもそも被害に遭うとして、と言う基準で語られる話題そのものが不謹慎である。しかしどうしても選ばざるを得ない、不可知的力の強制により選択を迫られざるを得ない、としたら、いや、しかし、どうしてもというなら巨木だろうか。巨木とは言え、なんせ一体である。打ち倒すに資源の集中が可能なのだ。それでだめならあきらめもつく。花びらの数だけの怪物なんて、そもそも手に負えない。攻略法を見つけたとしてもそこからが始まりで、今度は勢力戦となる。しかも圧倒的不利な。そんなものは無理矢理のみ込もうにもやりようがない。

 それでは巨木に決定したところで、ハイそうですかと素直に了承するほど人間はできておらず、あくまでこれは入口なのだ。そもそも四月と怪物の関係性こそ不明瞭で、結局所以の有る無しが正解ではないかもしれない。


 ないかもしれないが、始めてみるしかないのだろう。


 林立する木々はひしめく枝葉の層を成し、無数の蔦が縫い上げてゆく。鬱蒼とし、あらゆる自然物が埋もれながら訪れた夜の闇に沈む。眺める限りの森。その暗闇が、ふと綻ぶ。小高い丘の、斜面いっぱいに咲き誇る桜だった。夜の闇を突き破りながら、仄白さは不安を際立たせてもいる。そして中央に、抜きんでた巨木があった。


彼はその夜に目覚めたのだった。


 初めは勿論何が起こったのか分からず、そもそも何かが『起こる』というそのことさえ認識する蓄積を持たず、しかし知性はあった。知性は加速度的に認識を蓄えて蓄積を築き、何かが『起こる』と言う現象形式を捉えたうえで何が起こったのかわからない自らを手に入れた。

 彼はまず、自らの認知構造が一でありなら数多の複数にまたがり、それらを全として扱う己を当然ながら違和感としなかった。そして、いずれ接触することになる人間には、ひどく能率の悪い閉鎖を覚える。人間達は、個々に独立した意識しか持ち得なかった。しかし接触は稀であり、おおよそは平穏の内に過ごすことができた。

 人間は徒に彼のもとへはやってこない。その理由を、彼は恐れに見出した。彼の認識に誤りがなければ、人間は彼を恐れていた。しかしその理由は分からない。彼の意識は目覚めたが、それは今のところ彼にしか分からないことであり、外形上は人間で言うところの桜のままのはずだった。つまり、彼が目覚める前から人間達は彼を、桜を恐れていたのだった。

 斜面一帯に咲き誇る彼の一群を避け、回り道を厭わない。稀に迷い込む人間がいれば、気が触れたように走り抜けていった。

 何故、と湧いた興味もつかの間、花が散り、青葉をつける頃になると人間達の恐れは見えなくなる。平気で彼のもとを通り、回り道など愚にもつかないと言わんばかりに最短を行くようになった。彼もまた、興味が湧いたことさえ忘れたのだった。


 季節の移り変わりを覚え、鋭く凍てつく時期が過ぎようとする頃、かつて知った感覚が兆した。それは彼にとって意識の目覚めと紐づけられ、主に蕾として枝先へ現れ始める。


 また咲くのだろう。


 当然のようにそんな科白を呟いてみる。

 もはや認識に組み込まれた現象であり、それ以上に人を凌ぐ知性として彼はあった。


 彼の一群は花を咲かし、そしてふと、恐れについて思い出したのだった。


 人間達に、それは再び見え始めた。

 桜としての彼を避け、誤って迷い込もうものなら気が狂ったように、いや、まさしく気が狂い、逃げ出すこともままならない。どういうわけか、そのまま消失してしまう者もいた。彼の知見を以てしても未だにその現象の因果を捉えきれず、未分類で曖昧なそれは『謎』として一時的に処理せざるを得なかった。


そして花が散る。


 人間達は再び恐怖を忘れ、彼もまた忘れた。


 季節が過ぎ、花が咲き、そして散る。

 気付けば数多の年月が折り重なり、途方もない時間が目の前を過ぎる。そんな中、恐れはふと現れては消え、まるで旧来の知己にも似た親しみを覚えては忘れることを繰り返した。


 時折、ふと過るものがあった。記憶と呼んでいいものか分からず、それは所有が他にある気がするからだった。主観である男が、女の頸を両手の輪で締めてゆく。命が途絶え、呆然とする男の前で花びらと散って消える。そこで、その主観も途絶える。

 主観が男であると判定できるのは、光景だけではなく主観に備わる人格までもが記憶としてあるからである。その行為を、その光景を見ている俺、という主観。


 それは、俺なのか。


 彼は、俺と言う人称を手に入れ、やはり自分の記憶と呼ぶべきかと思い至る。

 俺も閉鎖的な独立を抱えた一人の人間だったのだろうか。


 しばらくして、また別の光景が過った。

 その主観は、しかし以前の男ではない。

 それなのに主観に備わる人格があり、そもそもこの人格に埋め込まれた自らの像には見覚えがあった。花咲く彼のもとに迷い込み、気が狂い、そして消えた。幾度もの消失を目撃し、その第一に当たる男であり、過る光景はまさしく消失するまでのものだった。


 それでは、俺ではないのか。


 俺と言う人称だけが残り、光景の所有は手放す。そして時々過る他の光景も、彼が目撃した消失と一致した。目撃していないのは、彼に俺と言う人称を与えた最初の男だけだった。


 最初の男は何者なのか。

 そして何故、消失するのか。


 かつて謎とされた恐れは親しみに分類され、そこを二つの新たな謎が占めた。

 しかしその謎も解決を見ないまま、傍らで膨大な時が流れていったのだった。


 過ぎゆく時の中で、彼は人間の観察を続けた。彼は斜面一帯だけではなく、彼のあるすべての場所から認知が可能であり、そのため知見には不自由しなかった。人間が怯えていたはずの恐れは、時折人間そのものだった。それは閉鎖的な独立を抱えた人間独特の現象でもあり、人間が恐怖を覚える対象がその他の人間であることによる。また他の種をないがしろにし、生ける場所を冒涜し、それを非難し、怒り、その全てが恐れと共にあり恐れそのものだった。

彼がそのまま種の全体を意味する彼にとって、それは発見だった。 彼に同種の対立はあり得ず、つまり対立を知らないまま、他の種があったとしても対立という矛先を知らない。独立する個我が対立を生み、片方が圧倒することで恐怖が生まれる。


膨大な時を超えた先、果てしない知見から彼はひとつの結論に行き着く。


恐怖は人間そのものなのではないか。そして、


***

「それで結局」

 と、さり気なく彼のもとに踏み込む。

「人間は何で君に恐怖するのかな」

 咲き誇る彼は、夜の闇にしんと立つ。眩暈がする程繰り返した開花でも、美しさの孕む狂気は衰えない。そうではない、と応え、人間達は我々の虚空の中に自らの恐怖を映したのだ、と続ける。巨木は彼であり、斜面一帯が彼であり、それは声帯から齎されておらず、彼の思念の中にいると言っていい。

「そうかな」

 と、ひとひらの花びらが開いた手の上に舞い落ちる。出来過ぎた描写で、もはやベタだろう。

「それだけでは説明が足りない気がするね。美しさの孕む狂気、これに対する説明が特に」

 それはそちらで勝手にやってくれ、と投げやりな思念を放りつけてくる。やれやれ、とかぶりを振り、それで、と続ける。

「君は結局、怪物なの」

 芯を食うはずの問いかけは、しばしの無言に放置される。それは我々の起源による、そう応じてきて、これはあからさまな肩透かしだろうと見込む。

「起源ねえ」

 さて、起源と言い、その先がないとすれば考えてみるのも吝かではない。ひとまずはあれか、と続けてみる。

「あの、最初の男」

 女の首を絞めていた、あの男。引き金として、どうなんだと問うてみる。あの男は、と思念が応じ、あれは山賊だった、と続ける。山賊として人を殺め、それは殺めた数だけをいうのではなく、息をするのと区別がつかないほどに軽んじたために、狂気を知らなかった。知ればひとたまりもない狂気を引き起こすが、それが引き出されたのだ。ある種の美しさは、狂気そのものだ。孕むのではなく、引き出したのはそういう類の、女だ。

「ああ、あの」

 と光景に映し出された女を思う。そんな風には見えなかったけどな、と思う間もなく思念が応じてくる。あれは、そういう女だった。そして、お前がこの花に見る狂気と呼応した。男の狂気が猛り、女の狂気が全てを切り裂き、俺が目覚めた。

 俺は、と思念が珍しく言い淀む気配を見せる。

 俺は、そうして二人を食らったのだ。

「なるほど、それで二人は消えた」

 そう、その後も狂気に応じて俺は人を食らい、食らった事にも気付かないほどだった。

「狂気によって生まれた怪物、か」

 ふうん、と検分する様子を見せて、懐疑的な表情で問うてみる。

「それでいいの」

 逡巡とも思える束の間を踏まえ、いや、と思念が答える。

 いや、待て、違う。

 記憶がある。

 もっと別の、これは、この記憶は、遥か以前のものだ。

 そう、人類が誕生する、もっと以前の―


俺は、いや、私という種は、この星に人類が誕生する遥か以前に、この星にやって来た。私は我々であり、我々は私という思念体だった。我々は物理的な基盤を持たず、有機的な営為と知性構造を持つ活動体に乗り移る。乗り移った先の意識を食らい、物理的な繁栄のもとに思念体としての繁栄を進める、そういう進化の種だった。

 そして問題は、この星が他の種からも侵食されていたことだった。

宇宙から飛来したそれらは強靭な肉体や巨躯を持ち、または自在に空を飛ぶものでもあり、それぞれが不浄な容貌と穢れた恐ろしさを備えていた。

 幸い我々は思念であり、器としての活動体を失えば繁栄と進化は止まるものの、ただ次の活動体を探せばよい。しかし勿論、失わないで済むのであればそれに越したことはない。こと物理的な衝突は活動体の損失に繋がり、利するところがないため、可能な限り衝突を避けた。戦略として、それは正解だった。他の種はお互いに気付くと、占有を争い衝突を繰り返した。そのためにある種は滅び、残る種も一時的な衰退を余儀なくされた。そして種が多数存在し、または飛来し、衝突が次の衝突を生み、我々以外の種は激化した生存競争によって疲弊と共に暮らした。

 しかしある時、避け得ぬ転換期が訪れた。

 圧倒的な種の到来。

 彼等は肉体的基盤をもちながら、意識さえも自由できた。

 あれは、本当は種と分類できる存在ではない。もっと他の、別な何か、なのだ。意識は、意識という使命を帯びた何かで、使命は次元を超えた先から到来している。我々は思念体として存在することで優位にいたが、その種は思念体ごと書き換えて存在を失わせることができた。それが攻撃と呼べるものか知らず、しかし実際、我々は攻撃を受けたのだ。そして勿論、物理的基盤を持つ種は圧倒され滅び、または服従を強いられた。

 敗北を喫した我々は、逃走に全力を尽くした。

 思念体として浮遊していても感知され、攻撃を受ける。

 種に分類できないあの種は、知性そのものを存在として感得できるようだった。

そのため、我々は繁栄ではなく、隠遁を目的として活動体に乗り移った。

知性構造が異質で、その活動が微弱にしか捉えられないもの。

それは、その後に植物と分類される系の原初に当たるものだった。

そして我々は、さらに知性活動を休眠させ、深い擬態に入った。


「いずれ目覚めるときが来ることを信じて、というわけだ」

 代わりに引きとって話を締める。別に珍しいことではない、圧倒的な種に追いやられた、お前たちの知らない怪異なる種が、深い海の底や地底、未到達の極北に目覚めを待って潜んでいる、ここはそういう星だ、と思念体はなぜか言い訳がましい。敗退が後ろめたかったのだろうか、そもそも戦略的に衝突を回避していたわけだから、あまり変わりない気もするが、まあ、本人が後ろめたいのならば放っておいて構わない。そもそも圧倒的な種はどこに行ったのだと尋ね、どうやらこの星から去ったらしい、理由は知らんが、と躊躇うような間が何とも頼りない。

「それで、これからどうする、怪物として」

 闇はまだ明ける様子もなく、花びらは、やはり妖しさを帯びて風に舞い上がる。人でも襲ってみるかい、と尋ねてから、ここに人は自分一人であることに気づく。しかし思念体は、それはもういい、とにべもない。我々は、次の星へ行く。そう告げて、再び花が風に舞う。そうか、残念、折角こうしてここにまで踏み込んで、怪物を作り上げたのに。


 お前は、自分が怪物を作り上げたと思っているのか。


 その問いは虚を衝いた。何を言ってるんだ、四月には怪物がいる、というところから君は生まれたんだぜ。


 思念体に含み笑いはないが、より直接的にその態度を、というか思念を示した。


 『四月には怪物がいる』、と。それは、お前の言葉か。


それはそうだろう、だって冒頭でそうやって、と言いかけて気付く。

やられた。


その言葉の実態は、誰も知らなかったのだろう。

そして誰が言い出したのか問い質しても、分からなかったのだろう。

その時点で、その言葉はお前のものではない。

それは我々が目覚めるために、思念に刻み込んだ鍵だった。

遥か古代より意識下で継承され、そして見事に、お前は我々を目覚めさせたのだ。


心の中でしたつもりの舌打ちが漏れる。


それでは行くとしよう。私とこの巨木は思った以上に深く結びついている故、これはもらっていく。幸いお前が怪物として手足をつけたことだし、飛んでゆくには差し支えないだろう。


そんな無茶苦茶な理屈で、巨木が軋み出す。手足を与えたのは花びらの怪物であって巨木ではない。そもそも手足にそんな空力学は通用しないはずだ、と浮遊する巨木を見上げる。左右に長く一本ずつ、あれは枝なのか根なのか、翼らしく広げている。あれを、手だと。足は、と見るに、確かに後ろに伸びる、これは根としか言いようのない二本がある。効果の分からない車用部品より役に立っていない気がするが、彼が良いと言うならばそれで良しとしよう。筋骨隆々はどこに行ったとは、もう言及しない。


まあしかし、これで良かったのだろう。

 本当の怪物は人間そのものである、なんて結末は、ここで軽々しく望むべきではない。然るべき場所で適切な重みを伴いつつ問われるべきことなのだから、今のところは桜の巨木に留めておくべきなのだ。


 闇夜に浮かぶ満月に、巨木の影が細かく土を零して浮上してゆく。

それを遠くに望み、残ったのは彼であったはずの桜の群れである。

しかし桜は未だ妖しく、美しく、ふと四方から風がごうごうとなる。これは、と迂闊にも私は気付いてしまう。桜の下の虚空に響き、恐怖はまだそこにある、と風の音が示す。抗う間もなく飲み込まれ、なるほど、怪物などでは全く足りない。この恐怖のすべてを捉えようなどと、それは思い上がりもいいところだったのだ。


風に揉まれて舞う花びら。

目の前を過り、その時にはもう、私はすでに消失していたのだった。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?