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冬日(とうじつ)第8話

第1話はコチラから

それは、この社会において言い憚ることであった。
それを打ち明けたのは、山下への信頼の証だと思っている。
だから他の人間に室田の思いを漏らしたことはない。

しかし。

この社会構図の中で、今さらその点を覆すことはおよそ無理だろう。
そうは思いながら、室田の人道観には感心していて、やはり上司で良かったとも思う。
自壊については、適応検査そのものの信頼性が揺らいでいる可能性を指摘していた。
検査が形骸化し、微かに残る自我を炙り出せていない。
もしくは、と室田は、あくまで可能性だが、と念押ししてから続けた。

もしくは、自我の再生。

何らかの理由で、彼等の自我が再生している。
自我の再生。
本当にそうだとしても、それが何を意味するかまでは、山下には分らない。室田もそれ以上は言及せず、我に返ったようにして
「引き留めちまったな。もういいから上がれ」
と話を引き取ってしまった。

帰り道、二月の寒気は厳しいが、それでも通りに人は多い。

行き交う人々はマフラーを念入りに巻き、またはポケット深くに手を突っ込みながら、時折吹き抜ける寒風を凌いでいる。

山下の手には手袋が嵌められ、それは由紀からのプレゼントだった。
あかぎれを起こしがちな山下の手に、差し向けられた由紀の気遣いがありがたく愛おしい。
何か土産を買おうと決め、百貨店のショウウィンドウに差し掛かる。

手袋からディスプレイに視線が移る。

大仰に飾られた、そこにあるものが目に止まった。
昨年からこの百貨店で打ち出しているキャンペーンで、チョコレートをプレゼントする日を掲げたイベントだった。

そして今日が、その当日であった。

そもそも戦争が起こるずっと以前にあった慣習で、山下も文献で知る程度だった。

それを改めて持ち出し、一大イベントとしてチョコレートを売り上げてやろうという魂胆なのだろう。

背景に商業主義がちらつくものの、
『愛する人に、愛する気持ちを』
という、ひねりの全くないキャッチコピーに返って潔さを感じ、それなら手のひらで踊ってやろうとチョコレートを土産にする。

「ただいま」
扉を開くと、奥から由紀が現れる。
「今日は早かったじゃない」
と悪戯っぽく山下を見る。
「そりゃそうさ、我が家が何より愛しいもんでね」
「はいはい」
由紀が静かに笑う。
それから山下に尋ねる。
「お風呂、それとも夕飯」
「先にお風呂かな」
と言い、これ、と提げていた袋を渡す。
「何」
「お土産」
靴を脱ぎながら山下が答え、続ける。
「チョコレートだよ。
ほら、最近コマーシャルなんかでやってるだろ、今日はチョコレートをあげる日だっていうからさ」
(続く)
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