The Caretakerを忘れるな(Everywhere at the End of Timeについて)

 さて、認知症の分類の一つであるアルツハイマー病の新薬アデュカヌマブがアメリカ食品医薬品局(日本の厚生労働省)の条件付き承認を受けたことが話題になっています。周知の通り、人類はまだ認知症を克服出来ていません。認知症研究の第一人者である長谷川和夫医師が認知症になったことを公表されたことは各所に衝撃を与えました。

 そんな認知症(アルツハイマー病)をテーマにした作品が、イギリスの電子音楽家James Leyland KirbyのプロジェクトThe Caretakerの"Everywhere at the End of Time"です。The Caretakerは元々、映画「シャイニング」のワンシーンに影響を受け(というかそのまんま)開始されたプロジェクトです。1999年のデビューアルバムのタイトルは"Selected Memories from Haunted Ballroom"であり、このタイトルやジャケットからも映画「シャイニング」の影響が色濃いことが分かります。この時点ではThe Caretakerの作る音楽のテーマは過ぎ去った過去への郷愁であったようですが、それが次第に記憶とその変容(あるいは、崩壊)へと移り変わっていきます。純粋な記憶障害をテーマにした2005年の"Theoretically Pure Anterograde Amnesia"を経て、2016年から足掛け4年に渡りアルツハイマー病がテーマの"Everywhere at the End of Time"シリーズ(アルバム6枚分)がリリースされました。

 認知症は症状の集まりである「症候群」であり、意欲の低下、注意機能の低下、言語機能の低下等々、様々な症状を呈します。これら認知症の中核症状の一つに記憶障害があります。認知症は基本的に慢性疾患ですから、これらの症状はある程度の時間をかけ徐々に進行していきます。この時間の流れをThe Caretakerはアルバム6枚、6時間半という長さで表現しています。それは瞬間的な事象である「死」をモチーフに描く作品とは似ているようで全く別種の退廃的雰囲気を纏っています。

 なぜアルバム6枚(6段階)での表現となったのか?これは恐らくアルツハイマー病の進行度分類として世界的に用いられることの多い、FASTの分類に基づいているのではないかと思われます。FASTの分類では最も低い段階を正常として、 老化、境界域、軽度AD(アルツハイマー病)、中等度AD、やや高度AD、重度ADの7段階に分類しています。"Everywhere at the End of Time"ではここから「正常」の段階を省いた6段階をアルバムにしたということなのでしょう。それはすなわちシリーズ1枚目(Stage 1)の段階から既に正常ではなく、機能異常が出現していることを意味します。

 Stage 1を再生すると、1920年代から1940年代の「古き良き時代」の金管楽器を中心としたダンスバンドのサンプリングが流れ出します。スクラッチノイズが乗るものの、(その後の展開に比して)ある程度明瞭な音源です。しかしながら良く聴くと、曲は短い範囲をループしており、トラックの終わりは唐突にやってきて、次のトラックに移行します。記憶は保持時間によって分類されますが、認知症において保持時間が数分から数日である「近時記憶」が強く障害されるのに対し、保持時間が数十年にも及ぶ「遠隔記憶」は比較的保たれることを表しているのだと思われます(ただしその保持も完全では無く、また記憶と記憶の連続性も保たれていない、ということなのでしょう)。

 その後、Stage 2からアルバムを重ねるごとにノイズが強くなっていき、一部保たれていた遠隔記憶までもが侵されていく過程が表現されます。また、中核にあるのは記憶障害の表現なのでしょうが、妄想や幻覚といった周辺症状を表しているようにも受け取れます。Stage 4に到達すると、もはやノイズミュージックの域に到達し、メロディを追うことが困難になってきます。Stage 6ではドローンミュージックと化し、記憶の世界(あるいは外界の認知)はほとんど平坦になります。アルツハイマー病の終末期において、大脳皮質の広範な機能喪失による失外套症候群(自発的に話したり、動いたりすることなく寝たきりになる)の段階に至っているのだと思われます。

 このままドローンミュージックに意識が塗りつぶされ終焉を迎えるのか、と思っていると、6時間半に及んだこの大作は、少し意外な結末を迎えます。メロディを完全に消失した時間の果てに、唐突にキャリア初期の作品"A Stairway to the stars"収録の"Friends past re-united"でも使用されたバッハの受難曲の一つである、ルカ受難曲 BMW246のサンプリングが流れ始めるのです。「星々への階段」「過去の友人たちとの再会」といったこれらのタイトルや最終トラックのタイトル"Place in the world fades away"はこの作品の主人公の人生の終焉(ただし、少し救いのある)に至ったことを表しているのだと思われます。ただし、サンプリングとして4作あるバッハの受難曲のうち、わざわざ偽作とされるルカ受難曲を選んでいることに対しては少し穿った見方をしてしまいそうになりますが、それは私の心が汚れているからということにしておきます。

 音楽で音以外の何かを表現しようとした時に、全く別のモダリティでありながらその壁を取っ払ってリアリティを持たせることに成功した作品だと思います。これに満足したのか、その後The Caretakerはプロジェクトを終結させています。「空洞です」を完成させたゆらゆら帝国と同じような気持ちだったのでしょうか。かなり長い作品ではありますが、一聴に値しますので、ここまで文章を読んでくださった奇特な方は是非聴いてみてください(Youtubeで全編公開されていますし、Bandcampではわずか5ポンドで買えます!)。退廃的な雰囲気の芸術的嗜好のある方は気に入ると思いますし、初期のStageのアルバムは適度に邪魔にならないBGMとしても非常に優秀で、私は何かBGMが欲しい時にはよくかけています。

 さて、認知症の分類の一つであるアルツハイマー病の新薬アデュカヌマブがアメリカ食品医薬品局(日本の厚生労働省)の条件付き承認を受けたことが話題になっています。周知の通り、人類はまだ認知症を克服出来ていません。認知症研究の第一人者である長谷川和夫医師が認知症n


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