記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

宝石の国、または煩悩を滅す百八話の鐘

遅ればせながら、「宝石の国」を読み終えた。漫画としてのイラスト表現の静寂や時折はさまれる喜劇的描写、無垢な学校生活の描写といった作品としての魅力に飾られ、芯を一本貫く力強い主題に心揺さぶられる名作だった。

以下では、本作から私が勝手に読み取ったことを書き散らかしてみたいと思う。なお、こういう読書感想文は昔から苦手で、「お前は何を言っているんだ(AA略)」という記載ばかりだと思う。オタク特有のお気持ち長文だと思って見逃してもらえらえば幸いである。

※以下、「宝石の国」のストーリーに関する多大なネタバレを含みます。




12巻までのあらすじ

鉱物が意思を持つようになった遠い未来。地球では宝石からなる生命体が学校に似た環境を作り、時折月の世界からやってくる月人(つきじん)からの襲撃から自分たちを守りながら暮らしていた。主人公のフォスフォフィライト(フォス)は他の宝石と比べ硬度が低く戦いには参加できないため、先生から博物誌の編纂を命じられる。
好奇心と自分も役に立ちたいという思いで学校の周りを探索する中で、フォスは月人と幾度となく遭遇し、友人たちを拉致されたり自らを削り取られていくのだが、その都度体の一部に異なる鉱物を接ぐことで力を得ていく。もろい単結晶であるところのフォスフォフィライトが多成分化していくことで得たのは力だけではなく、先生を頂点とする均質的な学校という環境からの逸脱の画策、という強い自我をも獲得し、ついには月の世界へ潜入する。そしてそこで見たものは、高度に発達し皆が平和に暮らしている月人の世界だった――。
月の世界でフォスは、月人の王子たるエクメアから「先生は、遠い過去に『にんげん』が作った機械である事」「月人は魂だけからなる存在であり、先生の祈りによって生から解放される事」「月人はみなそれを望んでいるが、先生は故障により祈らなくなってしまった事」を聞かされる。フォスは、月人に奪われた友人たちを取り返すためにエクメアに協力し、先生に動揺を与え祈らせるために「宝石たちの裏切り」という経験を与えることを画策。地球に戻り、仲間の一部を月の世界に連れ帰ることに成功する。
その後もフォスは、地球/ジュブナイルの世界と月/倦み疲れた成人の世界を行き来し、文字通り身を粉にして先生に祈るよう働きかけていくのだが、地球に残った宝石たちからは完全に「裏切者」として認識されてしまい、攻撃の対象となる。さらに、月に連れてきた仲間たちは月の世界で「なりたかった自分」への自己実現を果たしていき、未だ「仲間を取り戻す」ことを最終目標にしていたフォスは、地球・月双方の宝石たちの社会から隔絶した存在となる。
その結果、フォスは仲間の宝石たちを疎んじ、絶望と復讐の感情からすべての宝石を砕くため月の全軍とともに地球に侵攻する。そこでは、実際に地上すべての宝石を砕いたうえで先生を破壊することにも成功。既に多くの継ぎはぎとなっているフォスは、そこでさらに先生の右目を得るのだが、既に復讐の感情を伴うあまりに人間的な存在となっていたフォスには、これによって「祈る」能力が宿ることとなった。
そしてこれこそがエクメアの策謀であり、フォスが月人に祈りを向ける精神状態になるまでの1万年間、地球に完全に隔絶し、その間に宝石を含めたすべての生命を月の技術で月人化=魂のみの存在に加工する。こうしてフォスは、フォスを取り巻いていたはずのすべての存在を祈りによって消滅させ、自らは無限に続いていく世界に取り残される。

大乗仏教的な世界観と違和感

本作は、「先生」の袈裟姿に代表されるように仏教的な世界観が貫いているが、大乗仏教における重要な概念として、他力本願がある。大雑把に言って、他力=阿弥陀如来の力によって、本願=輪廻転生を終わらせ解脱・悟りを開いて成仏することを指すが、本作において月人は、他力本願による成仏を渇望し、フォスは阿弥陀如来の役目をエクメア(=エンマ・クメラ)から押し付けられている。閻魔大王は、死後輪廻転生において六道のいずれに生を宿すか、生前の罪を勘案して決定を下す役目を持つとされているが、本作における「仕分け」としては、フォスとそれ以外(ここにはエクメアも含まれる)、であったということになる。阿弥陀如来はすべての衆生を救う。月人は無限に消えない魂の世界で生を満喫し、ある意味で大きな煩悩を抱えて暮らしていた。このような月人たちでさえ阿弥陀様はお救いになる、という大きな物語が読み取れる。

しかし、フォスの目線で本作を読む私たちには、違和感が残る。「フォスにとってこんなに寂しい結末はないじゃない」と。すべての人がありのままの気持ちを抱えたまま向き合うことができ、自らを救ってくれる暖かい親のような存在になることを強制されたフォス自身には、身を寄せる友がいない。

例えば、恐らくフォスに対して特別な感情を抱いていたであろうシンシャですら、争いが終わった後の月の世界で、問いかけに対し

――俺は幸福だ
シンシャは、フォスが一緒でないとダメか?
――そうじゃないから困る

宝石の国(12) p160

と答えている。シンシャというキャラクターは、異物が学校という同質性の塊のような場所にどうやって包摂されていくのか、を明示するための舞台装置的な役割も果たしているが、彼をしてもフォスの異質さを消化できていない。

以下では、この違和感を紐解いてみたい。

私は初めからずっとひとりだったのです

フォスの行動原理は、好奇心と「皆のために」(10巻p36)という思いであった。そのため、一つの読み方として、「皆のために」の行き着く先は、自己犠牲とそれが反転し先鋭化した絶望と復讐の念であり、またその結果としてエクメアによってこの世界を理解させられ、好奇心の源泉を失った、というものがある。そして、地球に一人取り残されたフォスは一万年をかけ、このように獲得された歪な人間性をさらにもう一度部分的に捨てることで悟りに至る、という倒錯した仏性の獲得、というストーリーも描けるだろう。

一万年の後、月人たちが消滅を求めてフォスのいる地上にやってきた際、フォスは以下のように語る。

あの日私は この仕事の報せを受けるまで野原に一人でした
そして今日もここに一人です
私は初めからずっとひとりだったのです
私は祈り あなた方を無に送り
この一万年と少しの間には 何もなかったのです
無に至る それが私とあなた方の願い
やっと 解り合えましたね

宝石の国(12) p189 強調は著者

これが、フォスから月人へ送られる最後の言葉になるのだが、一読して太字にて強調した文言が気に掛かる。今まさに大挙して押し寄せた月人を前に「今日もここに一人」と言っている。また、「一万年と少し」という表現からは、今こうして月人と対峙しているこの瞬間を「少し」と表現しているように感じる。すなわちフォスは、今この瞬間を含めずっとひとりだったとしており、「皆のために」という行動原理が「皆なんていなかった」という認識で上書きされていると理解される。もともといないものなのだから、「無に至る それが私とあなた方の願い」という発想に至る。

これは「諦め」かもしれない。日常用語としての「やりたいことに見込みがないと知ってやめる」という意味ではなく、本質を見て取ること、という仏教用語として取るのが一見自然に思える。(あきらめ、は明らめとも当てられる)人間的な意思の本質は無なのだ、と思わずにはいられなかったのは、一万年の自省によるものかもしれない。

しかしそれ以降の話から、本作は単純に仏教的な世界観をなぞっただけのものではないことが伺える。

自分以外のすべてを消滅させた、その後

ここからは12巻以降の話になる。

フォスは、自分以外にも意思を持つ(ように見える)岩石生命体の存在を認識する。その岩石生命体は手足や視野を持たないため、機能を補完することを提案するが、

僕にひとつも不満はないよ
君にとって完璧ではないかもしれないけど
僕は自分が良いと自信があるよ

宝石の国 99話

この一言に、フォスは自らの中にある「誰からも愛されたいという望み」を思い出す、というか、フォスはこれを初めて言語化する。承認欲求、として作中の他者から言及されることはあれど、フォス自身はこの望みを認識していなかったのだろう。私個人としては、月人の消滅に際した「初めからずっとひとりだった」という諦めは、「誰からも愛されたいという望み」が満たされないことと表裏の関係にあり、その意味で純粋な無を求めたものではないのではと考えたい。

そもそも、「誰からも愛される」ことは人間関係において不可能だ。お互いに反目しあっているAさんとBさん両方から愛されることは、私の一存では困難に過ぎる。その意味で、フォスの「誰からも愛されたい」という望みは、人間的なものが残された、月人消滅前の世界では満たされえないものだったのだ。そしてそれを象徴的に表しているのが物語中盤までの月と地球の争いなのだろう。

その後岩石生命体とのやり取りを通じ、一時はその人間性による汚染を恐れたフォスも、牧歌的な岩石生命体との共同生活を「恒久の安息」と表現するに至る。そしてフォスにとって誰をも愛し誰からも愛される世界の実現によって、無に返した月人たちへの感謝の念が初めておこっている。

つまるところ、フォスは一万年の孤独という難行により悟りを開いたがゆえに月人たちと解り合ったのではなく、自分の中にある満たされない望みである「誰からも愛されたい」を日常言語の意味で諦めていただけで、愛情を通わせあう、ということを「恒久の安息」を通じて自己実現していったのではないだろうか。この意味で、フォスに関するこの物語が持つ悲劇性は、「一人ぼっちになってしまってかわいそう」なのではなく、フォス自身が内包(inclusion)し望んだシナリオそのものだったのではなかろうか。

人間は、成長とともに変化する。本作中の学校に満ちていた、不完全だが牧歌的な平和をより完全なものにしたい、という思いで成長したフォスは、試練を経てその望みを果たしたように感じられる。

おわりに

「宝石の国」は友人から勧められ読んでみたものなのだが、陳腐な言い方をすると、「私のために書かれた作品」であると感じた。
心穏やかに誰からも愛されたいという思いを抱えて毎日を暮らすことで、それによって他者に対する暴力性および周囲から関心を持たれなくなっていく寂しさを生む、というジレンマを強く感じている私は、本作の結末に救いを得ることができた。
足下のこの世界は、地球が燃え尽きた後といったはるか将来において、一面の草花に囲まれ「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」と他者に祈られる世界に対して地続きである、と信じられる。そうした信念が日々の私を救ってくれる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?