学校と環境教育

ゲスト:小澤紀美子さん
(東京学芸大学名誉教授・東海大学大学院客員教授・こども環境学会会長 ※2013年当時)

 環境教育の取り組みは、子どもたちにきちんと未来を託していくためにも、学校教育と深く結びついていく必要があります。しかしながら、環境問題について答えを一方的に教え込むのではなく、環境を通して、子どもたち自身が社会や自然、他人との関係をどうつくっていけばいいのかという、答えのない問題に対する創造力や想像力が問われているのではないでしょうか。今回のエコセミナーは、長年環境教育や学校教育に携わってこられた小澤紀美子さんをお招きし、教育の本来の役割から、その中で環境教育を進めていく可能性などについてお話を伺いました。

① 知識伝達型の教育から地域に根ざした統合的な教育へ

 今日は「学校と環境教育」という題を頂きましたけれど、基本的には持続可能な社会、地域づくりを目指すのが教育の役割だということなんですね。しかし私の基本姿勢は、今の日本の教育は、「村を捨てる教育」をしてるんじゃないかなという立場なんです。

 まず、環境教育というのは環境問題を教えることではないということですね。大事なのは知識を伝達することではない。それを勘違いして、すぐに「地球環境がおかしい」、「環境教育をしましょう」って言っています。小学4年生にアンケートを取ると、7割ぐらいは「温暖化」とか「砂漠化」とか答えるんだけど、子どもに「日本に砂漠ってあるの?」って聞いても、知らんぷりしたりする。言葉は知ってる。でも内実はわからないっていうことが実態です。ですから私の捉え方で言えば、人と人、人と自然、人と社会、あるいは人と地域との関係性を再構築していくのが環境教育、環境学習だということなんです。教える、教えられるという関係ではなく、ともに学び合う関係が環境教育には大事で、いわゆる学校でいうところの教科の教え方とは違うということをお話をしていきたいと思います。

 たとえば環境の全体性で言うと、環境ってみんなそれぞれイメージが違うんですね。環境って言われたときに、私は北海道の環境を思い浮かべたり、あるいは東海大学で5年間実習に行った西表の環境のことを考えたり。なぜ西表にヤマネコがいるのか、あるいは奄美大島にクロウサギが残されたのはどうしてだろうとか、それを子どもたちがわかるためにはどういう教材を作ったらいいんだろうとか。やっぱりそういった地理的条件の上に日本の国土は成り立っているんですね。しかし日本人全体、そういった多様な背景を忘れていますよね。私たちは土地の持ってる環境に生かされています。まずそこの感謝がなければ、倫理的な規定というのはなかなか見出されない。個人の枠で考えられるような教育ではダメなわけです。やはり倫理枠を土地まで広げていくこと。本来、その土地の伝統知というものがあって、それがきちんと大事にされて伝えられてきたんです。しかし近代教育はそれを全部切ってしまっている。教科書に書いてあることが正しいという前提で学んできて、ほんとにそうだろうかという疑問を持っていただければと思います。学校だけでは環境のことは教えられないんですね。地域、それから多様な人との出会い、多様な考え方が大事だと思っています。

 それから全体を見通した、バランスのとれた視野が大事です。各学問分野に依拠して学際的なアプローチをとること。これがなかなか日本では出来ないんですね。総合的なアプローチということは国も言ってますが、教科も全部縦割りで、統合する場がないんですね。私が中央教育審議会の委員のときに「総合的な学習の時間」を創設したんですが、なかなかその意味が分かってもらえないという悩みがあります。「歴史的な視野を入れつつも、現在と未来の関係に焦点を当てる」。ここがなかなか理解できないんですね。過去から学ぶこと。今を、今につながる過去から学び、そして未来から学ぶ。未来をどういうビジョンでつくっていくかっていうことがとても大事です。環境白書を見ると、酸性雨にしても、大気汚染にしても、いろんなデータがちゃんと出ています。そういったことをきちんと学習することも大事で、学校教育の中でもその科学的な根拠を学んでいますが、でもそこをある程度統合して、持続可能な地域づくりをどうするかということが問われています。

 環境と開発に関する教育について私たちは、物理的、生物学的、社会経済的な環境と、精神的な倫理などを含めた発展のあらゆる両面から、一体化され統合的に考えるということがなかなかない。どう方法論としてやっていくかっていうことがないんですね。どうでしょうか。英語の教科にしても、実際に外に出て自然に触れながら学んだっていいんですね。この葉っぱ丸いね、ギザギザだね、葉脈があるねっていうことを英語でやった方がリアリティのある学びが出来ると思う。そういった学習は、Problemを教えることではなくてIssueですよね。多角的に物事を見ていくときにはやはり総合的な学習の時間が必要だという立場です。そういった流れで、知識伝達教育から探求、創出、表現型の教育に変えようということ、それからいわ ゆる生活知、伝統知というものと、学校知、科学知とを統合していこう。そしてそのためには地域を取り込むこと。子どもから学ぶことだって出来るわけです。

 1997年に行われたギリシャのテサロニキ会議では、環境教育を「環境と持続可能性のための教育」と言ってもかまわないとされました。単に環境だけでなく、貧困の問題、人口、健康、食料の確保、民主主義、人権、平和を、すべて包括する。究極的には文化的多様性や伝統的知識を重んじる道徳、倫理的義務というふうに言ってるわけです。つい環境問題を教えがちになっていってしまうという課題がありますが、繰り返される教育ではなかなか共感が得られないですね。やっぱりいろんな方法論を使わないといけないだろうなと思っています。そういう意味では、環境だけを扱ってもダメですね。

② 次の世代に残していくこと

 少し国際的な動向のお話しをさせていただきたいと思います。
 今、国際的にはESD、Education for Sustainable Development ということがさかんに言われています。この「Develop」をどう訳すか。文科省の学術国際局は「持続発展教育」と言っているんですが、私はどちらかというとEfS、Education for Sustainability と言いたいんです。イギリスの文献などを見ていても、すべてEducation for Sustainability なんですね。どちらも持続可能性ということが言われているわけですが、やはり今のうちに資源を全部使ってしまうと、次の世代に残されているのかということが問われますね。また、先進国だけが使ってしまうと、他の国には残らないかもしれない。そういう意味でやはり優先されるべきものとして、途上国や他の国の貧しい人々に対する必要性っていうものもきちんと概念として持っておく。それから将来性へのニーズ(Needs)ですね、ウォンツ(Wants)ではないんです。この違い、わかりますでしょうか。毎日テレビでコマーシャルがわーっと流れますよね。あれはウォンツ、欲求を作り出してるわけです。そういうことではなくて、私たちは基本的に人間として生きていく、命をつなぐ、そこの最低限はニーズとして世界的に保証しなければいけないんですね。

 こういった概念をベースにしながら私たちが議論してきたことを、ある学者たちは大きく3つのテーマで表しています。
 まず、自然条件を大事にすること。北海道には北海道の生きものがいて、それぞれに生物の多様性を持っているということを尊重する。そしてそれとどう共存していくかっていうことが問われるわけです。それから2つ目は、世代間の公平です。次の世代のニーズを私たちは潰してはいけない。それから最後は、社会的な定義や生活の質の問題です。この最後の問題は難しいけれど、大きくこの3つのテーマがあり、そのためにいろんな議論がされてきました。基本的には1972年にストックホルムで行われた国連人間環境会議、そして75年と77年の国際環境教育会議がベースになってると思います。持続可能性の議論は、このころからすでにあったんですね。その後92年にブラジルのリオでサミットがあり、2002年にもヨハネスブルグでサミットが開かれた。その時に当時の首相の小泉さんが持続可能な開発を提言し、2005年から「国連持続可能な開発のための教育の10年」が開始されました。でも本当に持続可能な開発のための教育が行われているかどうか、それぞれで問わなければいけない課題があると思います。

 やはり市民を育成するということが基本だと思います。やっぱり私たちは当事者性を持たなければいけないんですよね。リオ宣言では、市民が参加すること、意思決定に参加することが提言されています。日本の国づくりは主権在民ですよね。なんか日本国民って忘れてるんじゃないのって思うんですけど。ある意味では小学生が一番、学級会などでまっとうな意見を言うかも知れませんよね。だんだんとみんな手を挙げなくなってくるというのが日本の子どもたちだと思います。

 参加型の意志決定で住民参加でやっていくこと、多様な方法で実践していくこと、そしてクリティカルな思考。この批判的な思考というのが難しい。非難されると思っちゃうんですね。客観的な事実に基づいてどう判断していくか、というところがない。それから将来の価値観とかビジョンを共有するといったプロセスが大事だと思います。そのためには、他人の意見や信念に対する寛容性。やはりわたしたちは価値観が違っていて、そのために話し合いをしていかなければいけません。違いに対して、意見が違っても根気よく話し合いをしていくとか、そういうスタンスが求められていくわけです。他にも、情報処理能力や数理的能力もあります。単に算数が出来るということではなく、データをきちんと読み解く力、そういったものが必要になってくるんですね。

③ 「内なる自然」を育てる

 皆さんは環境破壊ということはわかりますよね。私はそれに加えて「関係破壊」が起きていると思ってます。始めに、人と人、人と自然、人と地域との関係を再構築すると言いました。でももしかすると、日本人は人と人との関係づくりも苦手になってきているのかもしれません。どうしても社会システムを効率よく作っていこうとすると、分断していってしまう。中学や高校はすべて教科別で、理科は理科の先生、社会科は社会科の先生、家庭科は家庭科の先生がいる。でもほんとはみんなつながってるんじゃないのって言いたくなるけれど、なかなかそれを一緒に統合してやるっていうことがないわけです。

 私たちは戦後どうしてきたかというと、日本人はもともと自己否定感が強い国民性を持っていますね。だからそこを、後ろに下がるんじゃなくてちょっと前に出る、環境を通して自己肯定感をどう学んでいくか、日本の環境のすばらしさをどう学んでいくかですね。生き物だってイギリスに行ったらこんなにたくさんいませんよ。学校の校庭にたくさんの生き物がいる。東海大学の学生を実習に連れて行くと、彼らは自然が見えるんです。植物の種が雪の上に落ちているのがわかる。どうやって生き物たちが命をつないでいるかということが、冬の間は見えるんです。そういったことも学ぶ。湧き水が出ているところにはサンショウウオがいるんですね。湧き水の方が暖かい。また、北海道では雪の中に食べ物を埋めて保存しますよね。そういうことを農家さんに協力していただいて学んでいく。そういった自然っていうものを見える化していくことが大事で、そういう中で人間はちゃんと命をつないできたわけです。

 海外の人は、自然と文化をひとつの「環境」という枠で考えてますが、私は自然と文化っていうのが両方あって、その相互関係の中で成り立っているという捉え方なんです。それがどういうふうにつながっているかは、それぞれの状況によって違うわけですね。パッチワークのようにつながってると思います。物的環境も社会的環境も文化的環境も全部それぞれの地域の中にある。北海道だって非常に多様ですよね。そういった意味で私たちは、1人ではその全体像を見ることが出来ません。謙虚な気持ちで、やっぱり生かされてるっていうことがひとつ大事になってくるのかなと思います。生きていくために、命をつなぐために、私たちは食べていかなければいけませんよね。水も必要です。そういったものに対して、私たちはどう対応してきたか。そういうこともきちんと環境から学ぶ、環境として学ぶ。

 「外なる自然」としての環境破壊っていうのはわかりますが、人間関係などの「内なる自然」、そこがどうも私たちは見えなくなってきている。私たちは単なる環境問題を教えるだけではなく、持続可能な発展、内発的な力をつけていくことが大事なんです。学びとして、人と人との関係作りも大事ですね。人間は孤立しては生きていけません。お互いに、相互にいたわりあい、つながって生きているわけです。そこのところをどう学んでいくかということが大事なんですね。
 
 環境教育を学ぶとき、その要素に「ついて(about)」知識を学ぶことはよくありますが、文化などを「通して(thorough)」学ぶという概念がなかなかわからないんですね。また、デザインなどに「よって(by)」それからいろんな人と、「with」ですよね。体験型と言われているのは「in」、環境の「中で」学ぶ。そして何々に「向けて/for」。

 何のために学ぶのか、自分自身の内発的な力を身につけるのか、地域がもっと経済的に活性化するにはどうしたらいいのか、その辺のビジョンを、目標をきちんと共有していくっていう学びが大事になってくるかと思います。そのあたりが環境教育の新しい指導要領に入ったんですね。そこで何が言われているかというと、教材のつながり、人のつながり、態度・能力のつながり。これはまさに総合的な学習で言ってる能力に近いことですね。

④ 学び方を学ぶ:サプリメントとしての自然体験にならないために

 じゃあ、今どういう学力が求められているのか。
 学力論ってよく氷山にたとえられるんですね。上に見えるところだけってみんな言うわけです。でも本当は下を支えている、海の底の見えない部分の方がある意味では大事なのではないかと思います。教育者の役割として、皆さんの持ってるものをどうしたら引き出せるか、持ってるものを外に、「Educe(導く)」、「ate(させる)」っていうのが「Educate」の意味なんです。だから口を開けて待っていれば教育されるっていうことではないですね。

 学習には2つの種類があるんですね。ひとつは系統的な学習。いわゆる学校の教科別の学習がこの系統的学習です。そしてもうひとつ、探求的な学びが発見型学習です。「1+1=2」ていうのはどちらかというと系統的な学習ですよね。しかし環境教育や環境問題には、絶対に正しい唯一の解はない。だから事前の策をそれぞれみんなで考えていく必要があります。やっぱり学ぶことは「問うこと」です。答えにたどり着くには何と何を足せばいいんだろうか、という教育が日本にはないんですね。
 最近テレビでよくやってるクイズ番組だって、エリート大学出身って、本当にそう言えるのかどうかわかりませんけど、あんな知識を今更問われたってね、生きる力にはならないんじゃないかと私は思うんです。欧米なんかは「2=○+○」という教育です。だから先生は発問するだけ。日本の場合は、「1+1=2」ということを単純に教え込む。学び方を学ぶということがないんですね。「How to learn」がないんです。ですから私たちは、環境教育を語るときにはここを変えていく必要があると思います。

 そのためには、何よりも気づきが大事です。体験を通して気づくっていう場合もあるように、気づきをどうやって促すか。しかし日本の子どもたちは今、サプリメントとして自然体験が与えられてるのかもしれません。
 関係的な行為のひとつのプロセスとして、体験というのは大事だと思います。だから子どもには一番、群れて遊ぶことが大事だというのが私の立場です。やっぱり感受性期というものが決まっているから、4年生ぐらいまでに豊かな感受性を持ってもらいたいし、育んでほしい。そのためには、子どもたちの感受性を豊かに受け入れる土台づくりが大切です。

 私は今、こども環境学会の会長をしていますが、震災の時にみんなで緊急集会としてワークショップをやって、子どもたちにどういう支援をしたらいいのかということを考えました。そしてまずは遊び場を確保しようということで、東北の地主さんが山を貸してくれて、そこで子どもたちは木を切って遊び場を自分で作ったんです。その時にやっと、女の子たちが解放されてね。海の方を見ながら歌を歌い始めた。やっぱり子どもたちも大変なんですね。でも大人が大変だから言わない。

 他にもコンペをやって、子どもたちからもいろんなアイデアを提案してもらいました。みんなそれぞれ、遊びながらどういうふうに逃げたらいいのかを考えるとか、津波が来たらすぐ防波堤が立ち上がるとかね。そういう提案をしてくれたんです。子どもの力は確かだなと思いました。気仙沼の小・中・高校生でワークショップを開いてアイデアを出した時も、子どもたちから出てきたものには、「お父さんもおじいちゃんも漁師だからやっぱり自分は漁をやりたい」とか、「若者がいないと地域はダメになるから、若者が残るようなまちにしたい」とかね。すごく多様なストーリーがありました。

 やっぱり子どもたちは未来をつくる力を持ってるということが、デザインするっていうことの意味だと思います。先ほど「未来から学ぶ」と申し上げましたね。ワークショップを開いてビジョンを共有するだけでもいいです。それを子どもたちも一緒に入って自由にやってもらう。そこに対する学びが、先ほど「2=○+○」と言いましたけれど、そういう学びが日本の学校教育にない。本当は総合的な学習の時間がそうあってほしかったんですが、そこをうまくカリキュラムデザインをして、地域の方にも入ってもらって、共にやっていくということが問われるかなと思います。

 環境教育は、いわゆる手段としてのお勉強ではないですね。大学に行くためのお勉強ではないです。共同経験としての学びというものが、環境教育では特に大事です。私たちはコモンズをつくっていくということが大事なんだということが、環境教育でも見られているし、持続可能性を受けての教育だろうと思います。そうしてつくられるのが、こういったアイデアや能力になる。私たちには知ることを学ぶだけでなくて、成すことを学ぶ、共に生きること、そして人間として生きることを学ぶということが大事になってくる思います。
 論語にはこう書いてあります。「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし」。私たちにはやっぱり学び方、「How to Learn」というものが問われているんじゃないかと思いますので、是非またこの講義を通して、学び深めていただければありがたいと思います。今日はご静聴ありがとうございました。

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主催:北海道 / 企画・運営:NPO法人 当別エコロジカルコミュニティー
後援:(公財)北海道環境財団 / 協力:(公財)さっぽろ青少年女性活動協会

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