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その盲目さが #私の弱点

文芸作品における私の弱点、あるかしら、と思っているところがたぶん最大の弱点になるような気がする。

このnoteは【透明文芸部企画】「#私の弱点」へのエントリー記事となります。

いくつか思いついたことを挙げていきます。

・主人公が女性ばかり
・勢いに任せるところがある
・書きたい表現にたどり着くまで時間がかかる(10年とか)

最新の連載小説を例示します。

主人公が女性ばかり

この小説は #いまから推しのアーティスト語らせて  のコンテストに合わせて投稿された作品です。
vol.1はすでに完成していたので、おおむね満足しています。vol.2に関しては急ぎ足で書き上げたため、まだ客観視できていないところがあるので、思い起こしながら、このエントリーの教材にしたいと思います。

まず、主人公が女性ばかりという点ですが、この作品も女子中学生が主人公になっています。等身大の中学生は、もっと幼いように感じてはいるのですが、その年代の読者がこの作品を読んだ時、背伸びをしたい気持ちになって欲しい、という願いを込めています。vol.2はガールズバンドのお話なのですが、メジャーデビューするような子たちは、この年代から(遊びの延長ではあっても)オリジナルを作っているだろうし(彼女たちが目標としているリーガルリリーのほのかちゃんとかは、きっとそうだよね)、はっとするほど大人の部分を描きたいと思いました。ただそれが少し行き過ぎて、幼さの部分をうまく描けていないような気がします。その点はリライトが必要だと思っています。また、演奏部分の描写が甘いこと。特にヨナのベースに関しては、もう少しテクニカルなことを書き込みたいので、勉強しなくてはなりません。

主人公が女性ばかりであること。それは単純に自分が書きたいし、読みたいものだからだと思います。週刊少年ジャンプ的御都合主義があまり好きではないこと。女性性への憧れ。そんなものがないまぜになっていると思います。ただ、男性の一人称には、近くチャレンジをする予定です。おそらくこの連載の中で。物語が必要とするならば、特に人称の性別は関係なく、ああ、この子が語るのか、なるほど、オーケー、書いてみるよ。そんな気持ちになります。ですので、この弱点は、遠からず克服の第一歩を踏み出すことになると思っています(そもそもそれが弱点なのかはわからないのですが)。また、性別の多様性についても必ず書かなければならないと思っています。

先ほど「週刊少年ジャンプ的御都合主義」と書きましたが、矛盾しているようだけれど、オールトの雲vol.2には、そういう御都合主義が垣間見えます。胸のすくようなものを書く時、それは出来過ぎ、と思っても、あえて理想に振り切ることが必要ではないかと考えて書きました。

自分の本来の特性は純文学にマッチしていると思います。ただ、純文学を読むためには、他のもう少しストーリーを追いやすいものから入ることが必要だと思っています。楽しいものをたくさん、或いは繰り返し読むことで、複雑で観念的な物語も、理解はできなくても味わうことができるようになると考えているからです。

小説を読むきっかけがライトノベルであることは、近年とても多いと思います。私自身がそうでした。

その上で、他にも面白い物語はあるよ、と伝えたいのです。

自分のものを書く姿勢は「ゆりかごから墓場まで」をモットーにしています。
手に取った小説の作者が、実は幼い頃に読んだ童話の作者と同じだった! というのを目論んでいます。これはただの理想的妄想。

でも、いくらかでもそれを実現するために、童話・詩・エンターテイメント・ファンタジー・純文学、などなどを、とにかくたくさん書きたいと思っています。これから幼年童話にもチャレンジしたいし、ハードボイルドを書くかもしれない。ハードボイルドは、多分「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に集約されて、純文学を目指すことになると思うけれど(あ、でも映画の脚本のスタイルで「heavy rain nostalgia」というテロリストが登場する作品を書いたことがあります。「フライドドラゴンフィッシュ」に多大な影響を受けて書いた作品ですが、あれもいつかリライトしたい。「式日」に近いテイストになるのじゃないかと思っている)。

#私の弱点  になってますか? なってないですね。でも、そのまま突き進みます。

勢いに任せるところがある

そう、そうやって勢いに任せてしまいます。当初のプロットから外れ、主人公たちの赴くままに書いてしまいます。それは、小説をコントロールできない弱点となりますが、物語をドライブさせるには、とても必要な要素だと思っています。

そして、これが、一番大事なことなのですが、小説の登場人物が動くことで、作者が物語を発見し、新しい定義を見出すことができる。小説を書く喜びは(少なくとも自分の中では)この点に至り、こんな風につぶやきます。

へえ、そうなんだ。

物語の登場人物のセリフから、その事象を調べることが多々あります。オールトの雲vol.2で言えばユカのお父さんのセリフがそれに当たります。

僕はジャズが好きでね。レコードをかけようか。

私は、ジャズを全然聴かないし、詳しくない。一番ライブに足を運んだバンドはクラムボンで、彼らがジャズ・ポピュラー科の出身だから、知らずにジャズの要素は摂取しているかもしれないけれど、純粋なジャズを能動的に聴いたことはないかもしれない。

ジャズって、なんだ? と思いながら、頭にジョン・コルトレーン、という単語が浮かんでくるから、すぐに検索。あ、ジャズの人で合っている。それで、あの場面を描くことができました。

本当は、もっと詳しく資料に当たりたい。そういうのに本当は1年くらいかけたいと考えている。でも、締め切りがあるから、その中で調べられる範囲で書き上げる。noteなら、後にリライトして公開することも可能だ。

そう、間違いを恐れずに書こうと思うようになりました。これは弱点の克服です。良し悪しは別にして、アマチュアである今は、ある程度の質と圧倒的な量を目指すことにしています。

ですが、先月の詩の教室で聞いた話で、そのことももう一度考えないといけないと思わされたことがあります。

杉本真維子さんの「拍手」という詩の紹介の時に、文月先生が、杉本さんのエピソードを教えてくれました。

「現代詩手帖の投稿欄に掲載されるまでは買い物をしない」

生活必需品以外のことを指しているのだろうと思いますが、こういう物断ちをする姿勢は、とても共感します。それと同時に自分はだいぶ自分を甘やかしているな、と思い知らされます。

量を取るか質を取るかのせめぎ合いです。それで、私はその両方を得ようとspin a yarnを書き続けています。「クリティカルな質で、毎日書く」のは140字程度が自分の中では最適でした。習作ではありますが、数時間かけて毎日新作を考えています。それは、いつかきっと実を結ぶと思っています。spin a yarn + kayaはその果実のひとつです。

書きたい表現にたどり着くまで時間がかかる(10年とか)

これは、エコーがそうでした。エコーは夏鳥とあじさいが病院を出たところで長らくストップしていました。スターバックスにゆき、そこで他愛ない話をして終わる作品となっていました。でも、それでは、全然、面白くないのです。もしかしたら、純文学的にはありかもしれないけれど、個人的にはもうひとつのエピソードがどうしても欲しかった。

エコーを書き上げる間に、教会に通うようになり、バプテスマ(洗礼)を受け、クリスチャンになりました。何度かクリスチャンの葬儀に参列することになりました。それは強烈な違和でした。葬儀が静かに明るく、喜びさえ纏っていること。

クリスチャンでないとなかなか理解できない感情を、夏鳥に違和感を持って語らせました。この場面があることで、エコーは完成しました。

この完了する感覚は小説を書く上で、とても大事なことです。オールトの雲vol.2はまだその完了に至っていない。それでも、締切を優先した。専業作家ならあり得ることでしょう。その真似事をしてみたかった。

でも、それは誠実なことではなかった。手を加えないことでよくなることは、確かにあるのだけれど、完了していない作品はやっぱり未完です。

オールトの雲vol.3は三月の公開を予定していますが、それが果たされるか、分からない。(10年かかってしまうことに抗うために)今年は宣言をすることをいくつかやってみたけれど、叶わないことが多かった。やはり、完了の判子を押すまでは公開しないで置くのが最適解であるような気がしています。

第三話からは、物語は少し社会問題を提起するようなものになります。そのための資料を今、集めているところです。完了感を頼りに書くので、とてもお待たせすることになると思います。
待つ人がいてくれたら嬉しいのだけれど。

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#私の弱点 、全然書けなかった。ちげーよ、お前の弱点はコレだ! とぜひコメント欄で教えてください。克服できたら、新しい展開の物語が書けるかもしれない。そのことを期待して。

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【部員の方へ】
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