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はた(側)におるもんを幸せに

「ありがとうございます」感謝の恩送り

「きれいにして頂いて!ありがとうございます」

お客様からのお礼メッセージや直接お伝えくださる言葉に
毎回、良かった、嬉しいな、と自然と笑顔になります。
そして、また次への励みとパワーになっています。

現在、清掃業を営む主人と従業員の方々と共に清掃の仕事をしています。
簡単な軽作業の時もあれば、相当手こずってしまい大変な日もある仕事です。
でも、とってもやり甲斐があり、私自身は経験年数10年経ちました。事業所としては22年、今年は23年目に入ります。
伝えきれなかった「ありがとう」を「真心の働き」で「恩送り」として日々過ごさせて頂いています。
最初から完璧な仕事が出来たはずも無く、現場はぶっつけ本番、毎回違った内容の経験を積み重ね、色々失敗もあって今に至ります。
それら一つ一つのお陰様で、お互いに笑顔になれると思っています。

転職せざるを得なかった20代

10代は不登校や高校中退、大検チャレンジと遠回りしながら、多くの方のお力添えもあり、ゆっくり、じっくり歩み進められました。
20代前半、調理師専門学校を卒業して調理師として就職、自分なりに夢や目標を持って一生懸命に働き始めました。
でも、遊びにも夢中になり無茶をしてしまい体調を崩したため、数年で正社員をやめアルバイトとして短時間に切り替え続けました。
丁度その頃、母の病いが発覚、治療療養のため父親から家業を手伝うように説得され実家へと戻りました。
家の仕事は嫌いではなかったですし、むしろ大好きでした。
ただ全く専門知識等皆無のまま身内というだけでお手伝いの感覚で飛び込んだ屋内外広告業の世界。
営業、デザイン、製品制作、経理全般、業界誌や関連本と県の講習会で基礎の自主学習、とにかく、やるしかない状況下で、自動車教習所へ通い免許取得しました。まだ早いと反対されていたのに交際していた彼とは勢いで妊娠・結婚。
自分で自分の首を絞めてしまい、出来る、大丈夫、出来る、大丈夫。毎日呪文のように自分に言い聞かせていました。
結果、責任ある仕事プラス家庭の事も、重くのしかかってしまった20代半ば、行き当たりばったりで、お客様本位と思いながらも利益率や資金繰りの事も関わるようになると完全に会社優先、生活リズムも仕事の予定優先に。
保育園が見つかるまでは、子どもを連れて事務所へ行き仕事を淡々と進め、家に帰れば家事全般を。想像していた結婚生活とはほど遠く、追われて追われて一日が終わる。そんな日々でした。
早朝から深夜まで自宅と職場と現場を行き来しながら必死だった事は覚えています。そして、子どもの寝顔に癒やされたり、泣いたり。
それでも、母が病気だったり、父の支えにならなきゃ、と思い、子どもの時から、散々心配や迷惑をかけていたんだ、頑張れる!やろう!

そう思い続けられたのは、一緒に働く祖父も居たからでした。
今は亡き祖父は、子どもの時から働いてきた人でした。尋常小学校卒業後に台湾での厳しい丁稚奉公へ行かされた、と聞きました。
「自分一人でも頑張ったら、他の何人もが幸せになるもんや、楽になって貰える、働くとは自分の側(はた)に居(お)るもんの幸せを願って喜んでさせてもらうもんや」とも話していました。
親元を遠く離れ、働く仲間と寝食を共にし支え合い、励まし合いながら、何も楽しみ事が無いような環境で、どんな思いで日本を離れて長年過ごしていたのかと考えた時、きっと祖父は良い事、嬉しい事、面白い事にたくさん気持ちを向けて、嫌だと思う事は忘れる、そういうもん、で呑み込んで一日ずつ丁寧に生きていたんだろうな、と思いました。

体調崩した20代後半から迷路に迷い込んだ30代

インターネット普及に伴い、手作りからオートメーション化や海外製品の普及で自社に対する需要と供給の相違に大差が生じ、頑張っていても専門的なサービス内容の価値が変わりつつある時代を迎え、会社としての業績はどんどん傾いていきました。
心身共に疲れてしまい、とうとう体調を崩しました。
当時、結婚した彼も事業に巻き込み頼りにもしていたのですが、太刀打ち不可能と彼は自分の家庭だけは守ろうと転職しました。私は一緒にやれている事で気も張れて、より頑張れていたのですが、結局甘えていたんです。
自分がやるべき事を学ぶべき事を正しく見られてなかった、思った以上に職場で一人になると大ダメージでした。
さらに20代後半頃から数年に渡り、いくつかの誘われたネットワークビジネスや訪問販売、詐欺まがいの情報にのめり込み、手を出してしまいました。
(ほんと、アホとしか言い様がない)

子どもの頃の「や~めたっ!」があらゆる場面で見え隠れするようになり、仕事も子育ても家庭もうまくいかない状況が深刻になっていきました。今思えば鬱状態に入っていく寸前でした。でも、話し相手になってくれていた、受け止めてくれていた幼なじみの親友が居たことで本当に救われていました。

その大事な親友が若くしてこの世のご縁と別れる事になってしまいました。
泣いても泣いても足りませんでした。今でも、二度と会えないと思うと、すぐに悲しくなります。
それは、子どもの時から何度も馬鹿な私をそっと支え続けて居てくれていた事、いつも、嬉しいのに、面と向かって、ちゃんと「ありがとう」って言えていなかったからです。
逆に彼女からは「ありがとう」をたくさん聞いてきました。
小学生の頃、宿題を一緒にしていた時、遊んで帰るとき、電話で話し終える時、
先に「ありがとう」て言われると、私は、「ううん、全然、いいよ/またね」的な答えをしていました。
「私もありがとう、て思ってる」簡単な言葉なのにな、どうして言えなかったのかな。変にプライド高かったからかも。してあげてる感を出していたんだと思います。

そして、最終的には、事業は軌道修正出来ずに業務にも集中できていなかった状況なので、本業共に倒産し大失敗となりました。
一家離散状態となりましたが、助けてくださる親類や心ある方々に支えられ、無事転居先を確保し再出発へ。
調理師の資格があったため、ハローワークを訪ねてから短期間で再就職出来ました。しかし、子どもは、ほったらかし状態でした。
人がなかなか出勤困難な土日祝、早出、遅出、シフト通りに言われるがまま働きました。
明日の食費は何円で、来月の電気代や家賃や、子どもの必要用品購入代などなど考えたりしながら、淡々と合理的に感情無くやり進めるのみの日々。
目の前のすべての事、時間はお金に見えていました。
事情が色々とありますが、調理師の仕事から保険会社に就職し、仕事を通して、声をかけてくださった今の主人がきっかけで始めた清掃業に出会っていなければ、現在のように穏やかに感謝の気持ちで過ごさせて頂けなかったと思います。
働くことを通して、身近に関わりある周りの方々の環境を見聞きする機会を重ねるようになりました。少しずつ気持ちに余裕が生まれ、感情も戻り、自分が今、仕事が出来ること、暮らせている毎日が当たり前で無い事、改めて有り難いな、と思うようになりました。
家業で四苦八苦していた時は、自分だけがしんどい、なんか違う、という思いばかり募りました。きっと、周りとの距離感があまりにも遠く、、、いいえ、自分で距離を取り、必要以上に関わらないでおこう、としていたんだ、と気づきました。
しかし、せっかく素直な心を取り戻しつつあったのに、家庭は崩壊しました。
支配されてる感や、いつも、してもらってる当たり前感で、過去の失敗や家事一つ一つ愚痴を返されて、無意識なら、なおさら辛かったです。変えられない自分の過去を悔やむばかりに。
ところが、私自信も彼に、
あなたの母親じゃ無い、そんな優しさは求めんといて!
父のように強くいて欲しい、どうしてゴミ出し一つ出来ないの、子どもじゃあるまいし、それぐらい自分でして!
今思うと、お互いに、些細な事ばかりで傷つけ合ったり、罵り合ったり、不満を出し合い、泣いたり色々言い合いしながら何度も乗り越えて、乗り越えて一緒にいたはずなのに、完全には元のように心を寄せる事が出来ず、再出発を強く望む自分が大きくなりました。
「ありがとう」もたくさんあったはずなのに、思うようにいかない自分の人生に悲観して、相手へ最悪の球出しするような、すべて映し鏡だったと思います。
それでも、あの時は自分の生き方と気持ちを守りたかったから別れてしまいました。

新たなチャレンジ

30代後半、無謀にも3人の子どもを連れてシングルマザーになりました。友人達は励ましてくれ両親は応援してくれましたし、心強かったです。
その頃は、清掃業と保険業の手伝いをしていました。
途中からは清掃業のみに。
そして、まさか嫁になるとは思っていませんでしたが、出会いとご縁とは本当に不思議です。
数々の恩恵に対して同じように返せてこなかったからこそ、恩送りの気持ちで日々清掃の仕事に向き合っています。
今日も働ける事に「ありがとう」
出会わせて頂いたことに「ありがとう」
この瞬間の繋がりご縁に「ありがとう」

お立ち寄り読んでくださって、
とっても嬉しいです。
ありがとうございます。

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