【戦争回顧録】13. 地元出身のMN氏の自分史
平成4年、亡き祖父の呼びかけで戦争体験者の中から数名の有志の方が体験記を寄稿されました。
MN氏は期限間近に郵送にて第2次世界大戦の原爆にまつわる思い出を祖父宛に送ってこられたそうです。
強い意志を持って後生に伝えたかったであろう思いをここに転記させていただきました。
追憶(ピカドン)
昭和20年8月6日午前8時頃、米軍のB29爆撃機3機が広島市上空に飛来し、世界初の特殊爆弾を投下した。(後で知った事だが此れが原爆であった。)当時私は歩兵であったが第二回目の召集に依り船舶工兵隊に入隊し、広島市宇品港から程近い金輪島にある暁6140部隊船舶修理部に配属されていた。丁度その日は私は衛兵当番の日だったので軍装を整え、修理部まで行き任務の時間を待っていた。(後で考えると、その時の修理部の時計は20分位遅れていたんだと思われる。)その時計が7時55分頃だった!その時、北側の窓からピカッとフラッシュの様な強い閃光が飛び込んだ。「何だっ!」驚いてみんなが窓の方を見ると窓側の兵隊達が窓の外の上の方を指差して、何か云いながら騒いでいた。その時、突然ドーンと大きな音と共に爆風と窓も壁も一緒に飛び込んで来た。咄嗟の出来事で此れはてっきり隣の鋳物工場にでも爆弾が落ちたと思い、どうして逃げたか自分でもわからない位の早さで裏山の防空壕に飛び込んで、頭を抱えて目を閉じてしゃがみ込んで2~30分。ふとわれに返り、そっと外を見て驚いた。つい先程まで自分が居た修理部の建物が跡形もなく倒壊していた。間もなく全員集合の号令。前の道路に整列、中隊長の指示「只今の事故は原因不明である。各自流言飛語に惑わされ、軽挙妄動は慎む様に」だった。
解散、直ちに私は裏山の陣地に登り歩哨の定位置についた。ふと見れば市の中心に大きな茸雲が出来ている。市内の大部分は火の海であった。茸雲の高さは7~8千米もあろうかと思われた。
午後に成って宇品の方から大発(大型発動機船)らしき船が此方に向かって、次から次へと続いてやって来る。やがて其の船は金輪島の桟橋へ入って来た。何だろうと思っていた処、任務を終えて兵舎に帰って見ると、我々の寝台は全身火傷の患者で一杯。我々の寝具、私物、官物、の凡ては兵舎横の広場に山積みにされていた。
舎内では、衛生兵の指揮で患者の手当に扱き使われた。
「兵隊さん、お水ちょうだい」「兵隊さん、おしっこ」等と、たいへんな騒ぎであった。
「水を与えたらすぐ死んでしまう。与えてはいけない。」と指示されていた。
ものを言える患者達には名前を聞いて荷札に書き、患者の頭髪に付ける。
兵舎の入口には大きな張り紙が貼られ、患者の名前が書き連ねられ、名前の下には赤字で亡の字が書き足された者がかなりあった。
兵達の必死の看病も空しく、次々と亡くなっていく仏は表に出す。
仮説火葬場に運ばれて行く。入れ替わりに別の患者が運ばれて来る。
夜も更けて交替で寝る事になった。
広場に一隅に有る物干し場の杭に蚊帳を吊って青空寝床で寝る。
翌日は現地への救援隊として被災者の食糧運搬をする事に成り、小舟に一杯の食糧を積み現地に向かった。広島市内には6つの川が流れているが、市の中心を流れる太田川(本川)の河口から凡そ2キロ程遡る内に河上から流れて来る遺体に数回出会った。今朝これだけ流れて来る様では、明日はどれだけの人が瀬戸内海に流されるだろうと思った。
やがて目的地に着き舟もやっと上陸して見たら、丁度上陸地点に菰(こも)を敷いて座っていた女性が居たが、舟が着いて荷物を揚げるらしいと思ったらしく、やおら立ち菰を引きずって道路の向側に行って、また座り込んだ。
見れば全身火傷で皮膚は全く無く、全く肉の塊の様な有様だった。あまりにも可哀想だったので、運んでいる叺の中から、隊員の一人が握り飯一つ取り出して与えたが、とても食べられなかった。
辺りを見るとありらにも、こちらにも死体が横たわっていた。通り掛かった救助隊に患者を頼んでおいて我々は、また食糧を荷車に積んで命ぜられた隊に届け、舟に向かって帰る途中、担架に乗せられて運ばれて行く彼女に出会った。(後で聞いたら先方へ着いたら死んでいたそうである)
舟に依る食糧運搬は此の後2回位行った後、死体の処理をする事になった。集められた兵員は三班に分けられ、倒壊家屋の廃材を集める班、死体を火葬にする班、我々は死体集めの班だった。三人で一組に担架1つ、2人で担ぎ交替要員1人、10組位だったと思う。
一つの町内位を集めるのに運んだ、運んだ、、、。
初めの二~三日は死臭で気持ちが悪く成り、食事も喉を通らない程だったが、後は慣れてしまった。地上のは、まだ良いのだが、防空壕から取り出すのが大変だった。
こうした任務を半月か20日l位も続けただろうか。
遺体の中には衣類が残っていて名前がついている者は二人ずつ別に火葬にし遺骨を取り、紙に包んで名前を書き保管し仮火葬場の仮事務所を設け、古襖等に名前を書き張りだされていた。
地方から被災者の安否を気遣って駆け付けた人達が各隊の仮事務所を見て廻り、身内の人の名前を見付けると、涙ながらに遺骨を押し頂いて帰っていくであった。
以上、一ヶ月近い私の目で見た悲惨な状況を書き綴ってみたが、此の間、あれが原子爆弾と云うことは、誰も知らず、ピカッと光ってドンと来たから「ピカドン」と呼んでいた。恐ろしいのはピカドン。
私が後生に伝えたい事は「他国から侵略されない限り絶対に戦争はしてはならない」と申し上げて終ります。
以上
多くの体験談や映像でも残されている原子爆弾の破壊力と悲しい記憶と目に焼きついた光景は、忘れたくても、生涯忘れられない悲惨極まりない状況だった事が分かります。
私が小学中生の時は、毎年のように、体育館で映画鑑賞がありました。
特に覚えてる映画のタイトルは、アニメの「はだしのゲン」シリーズ、「黒い雨」「プラトーン」です。
実体験を元に作られてる映画だけに、どれほどの虚無感にさいなまれ、未来を思い描くことなんて、夢のまた夢、数時間後の命さえないかもしれない恐怖、想像を絶する状況だったんだ、と心にずっしり重く響いたのを、何十年経っても感じます。そして、自分自身、家族や子どもたち、友達や仲間の誰一人として、無益な争いに巻き込まれるなんて、考えたくもありません。
改めまして、読んで下さって
ありがとうございました。
てこパカ
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