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【戦争回顧録】N氏のお兄さんの自分史〜手記を転記しました

あいさつ以外に直接お話しすることはありませんでしたが、お宅が小学校の通学路の道沿いの方だったので、よくお見かけしました。庭木の手入れされてたり、畑などの帰りかな?と思われる作業着姿が印象的でした。


大東亜戦参加の一員として

平成四年十二月

 戦争も押し迫った昭和十八年十一月召集令状を受け取り、海軍補充員として舞鶴海兵団に入団する事となりました。何と複雑な心境、国民としての応召は一面満足の悦びと、半面は幼い児と妻を残しての不安との出発は何人も味あわれた事と思います。丁度入団後一ヶ月は概ね基礎訓練にて年末には千葉館山砲術学校にて、高射砲隊員としての配置訓練の突貫教育を授けられ、三月も末には戦地派遣となりました。まず横須賀軍需部まで兵器弾薬その他資材の搭載。続いて青森県大湊軍港にて糧秣の搭載を終えて、いよいよ千鳥列島最北端占守島に出航致しました。丁度只今問題の歯舞、色丹、国後、択捉島を過ぎ、北海の荒波を僅か八百トンの輸送船、日吉丸にて四月一日目的地に到着致しました。熟々驚きました。島は一面銀世界、目にうつる物、何も見当たりません。唯、強風と猛吹雪、その中を上陸。翌日四月二日より砲の据付作業。心配して居りました兵舎は雪の中をさん濛の上に屋根を張っての住まいです。ただし思い掛けもなく縦横は濛が掘られ、すべて便利になって居りました。丁度久しぶりのお天気で作業は色々ありました。
四月二十日作業中に、4月20日は○○(地元の名)の春祭の日、一枝の松の枝が見えた。多分内地から荷物に混じって運ばれたと思って、珍しい思いでありましたが、四月も末になると急に暖かになり雪も解け始め、五月になれば久しぶりに大地が形を表しました。すると一面が松とハンの木の林には驚きました。強風と酷寒の為に上には伸びず横に広がる、一,五米位の林です。ただし木は三十年も五十年も経た古木で、根元では一米も二米もある大樹で悪環境に活きる松の木の知恵でありました。その頃になると急に春が訪れた様に百花爛漫、ユリの花、鈴蘭等々、余り見たことの無い花々が咲き乱れ島の姿が見違えるようになります。その頃になると軍の行動も激しく小島の中をトラックが走り軍の施設も判りました。この島こそ、北方軍の総司令部が丘の上にその姿を現わし、彼方此方に資材糧秣が野積にされ北方基地と判りました。海軍中尉、戸塚美智太郎閣下の所在地と判りました。
 太平洋戦争に於いてラジオ、新聞に依り報道されました、最北端の守備隊アツツ、キスカ島に於いてアメリカ軍の艦砲射撃、続いての上陸作戦に依り日本守備隊員の陸海軍将兵が玉砕せられた悲しい記憶があります。我が北方軍として悲しい歴史と思われます。その後は米国の作戦に依り南方転進となりガダルカナル等々と激戦が展開されますので北方方面は激戦を免れ、空襲、潜水艦等の攻撃に備えての毎日でした。
 丁度春も五月、六月、早、七月には寒さを感じて八月には冬支度、中頃にもなれば吹雪と変わり、又モグラの生活となります。そうして年を越え寒さも柔ぐ五月急に周囲が慌ただしくなり何が起るかと命令を待って居りました。果たしてそれは本土防衛強化に内地に進攻との意外の事に全員無言、唯々上官の命に従うばなりでありました。丁度五月中旬、青葉薫る大湊に帰り砲台の設営等、本土決戦に備えて陣地構築に追われつつ、八月十五日を迎えて終戦を知って全てが空しく一年七ヶ月が終わりであった。然しこの間は短期間ではあるが、種々の思い出と体験させて戴いた事は応召のお陰と感謝して居ります。
 我々の居りました占守島より10㎞か20㎞のところ、○○(地元)から眺めて西江州程の半島がロシア領のカムチャッカ半島がありましたが、勿論の所、占守島以上の悪環境のこの島に今でもロシア人多数が定住している事をテレビや新聞に依って報道されます。異国人とは言え実に悲運な人々であろうか。それに引き替え我々はこのような気候温暖な、しかも風光明媚のこの土地に生を受けた幸をしみじみ味わって居る今日この頃であります。
 尚、私達の島より後方10㎞の島ホロムシロ島には当町のK様が居られる事を知人の報により知り、一度出会いたく日夜思案しておりましたが、海が荒れる毎日でその希望が叶わぬままの帰還で残念でした。

▷N氏のお兄さんの手記は以上です

K氏の手記はこちら↓


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