見出し画像

【戦争回顧録】ご住職の自分史~手記を転記しました

ご住職様には、幼い頃より小学校6年生まで大変お世話になりました。
 特に日曜学校では宗教的な集いではありましたが、勤行と仏教の学びと礼儀、説話、そして本堂の掃除と遊びの時間もあり、たくさんの子供で集まって過ごす時間は、賑やかでとても楽しかったです。
また、毎月の祥月には朝早くに勝手に時間で来られ、まあまあ早口のお勤めをされ、さっさと出て行かれるので、家は鍵が開けてありました。起きていれば一緒に座ってお参りし、御礼とごあいさつだけしました。
次々に早足で行かれて忙しそうで不思議でしたが、教師をされてたので退職されるまで、畑もしながら坊守様と共に手分けして大変だったと思います。


「あ~堂々」?の輸送船

 昭和十八年十二月一日、第一回学徒出陣として、西部第三部隊、浜田歩兵第二十一連隊補充隊に入隊し初年兵教育でしごかれ、十九年四月一日、甲種幹部候補生として久留米第一軍予備士官学校に入隊、昼夜を分かたない猛烈な戦闘訓練を受けた。ようやく涼風がたちそめ、十月末には見習士官として原隊に復帰する日を夢みていた。ところが同年九月十日、突如として、一部をのぞいてほとんど全員が南方軍に転属を命じられた。
 入隊以来、一度の外出、面会も、また一回の外泊も許されず、そのまま南方行きだ。それからの毎日は転属のための雑務におわれた。幹部候補生としての完全武装は実に奇妙なものだ。下士官と将校の両方装備を持つことになる。すなわち、背のう、雑のう、図のう、水筒、双眼鏡、防毒面、鉄帽、軍帽、帯剣、三八武歩兵銃、軍刀、将校行季である。
 九月十三日、壮行式があった。陸軍少将、樋口敬七郎校長の型どおりの訓示が終り、いったん演壇閣下は再び壇上にあがり「諸子は陸兵だ、絶対に海で死んではならない、万難を排して生きよ、武運を祈る。」と付け加えられた。当時すでに、制海権も制空権も敵がほしいままにしている。その海を南へ向って行く我々を案じての閣下温情であった。
 九月十四日夕刻、いよいよ士官学校を出発だ。その日の午後、「鷹尾候補生面会!」の知らせを受けた。こんな九州くんだりまでいったい誰が面会に来たのだろうと、いぶかりながら面会室に入った。そこには年老いた島根県の義父が杖を片手に複雑な表情の中に、それでも精一杯の笑みを浮かべて私を迎えてくれた。「あっt、お父さん!」と言ったきり二人の間にはしばらくかわす言葉もなかった。それだけに二人の言いたいことはお互いの胸に伝わった。昨年十二月一日入隊以来はじめての面会であり、そしてこれが最後の面会である。「ようこそ、この老体で久留米くんだりまで来てくださった。」と心の中で手を合わせた。夕方久留米駅を出発する時、人ごみのなかに、私を見送るために帰りもしないで居残ってくれている老いた義父の姿をみいだしながら列車に乗り込んだ。
 南方へ輸送される間のさまざまな苦難がもう、その夜から始まった。台風の襲来である。門司駅に着くと、そこからそこからかなりの道のり。山中にある松ヶ枝廠舎まで、乗船のための夜間行軍だ。将校行季だけは別送してくれたが、他の装備は全部身につけ、肩に負うての行軍だ。しかも台風の雨は容赦なくたたきつける。教官からよく聞かされたことばが実感となった。それは「将校たるものは、夜は寝るべからず、めしは喰うべからず、雨が降っても雨具は身につけるべからず、水筒の水は部下のためのものである、休憩の時は腰をおろすべからず・・・。」と。その夜はまさに、寝るべからず、雨具をつけるべからずで、松ヶ枝廠舎では小休止をしただけで再び門司港へ向って闇と豪雨の中を行軍だ。背のうも、雑のうも昨夜来の雨で重さを倍増し肩にくい込む。もちろん、全身中身までずぶぬれ、軍靴のなかにも雨水がいっぱい入りこんで運ぶ足が重くなる。結局一晩中台風の中を歩きまわったにすぎない。夜が明けた頃どうにか雨もやみ、門司港に着いた。埠頭には近くの戦友の家族の人々が聞きつけて、「かに」の蒸したのをいく籠にも入れてふるまってくれた。よせばいいのに貪欲をむき出しにして、しこたまお腹の中へ入れた。
 しばらく待っているうちに、こんなうわさが流れた。「われわれの乗る予定の船が昨夜撃沈されたので急きょ、長山丸(三,九三八トン)という貨物船に乗ることになった」と。これは定員の三倍にあたる約三千人が乗り込むのだ。船倉の中はいわゆる蚕棚と兵隊は呼んでいるが三段乃至四段に区切ってある、無論立つことはできない。腰をおろすと頭が上の棚につかえる。その中で与えられた座席は、畳一枚に八名つめこまれるのだ。完全武装の兵が八名というと腰をおろすことがやっとという広さだ。装具をはずすと、ほとんどの者が甲板へ出ていった。その甲板も兵、兵、兵でいっぱいだ。間もなく船は出航するはずである。
 その頃から私は激しい腹痛におそわれ便所へかけ込んだ。しかし胃の激痛は治まらない。四秒か五秒おきに激しい胃痛が起る。戦友のほとんどのものが甲板に出て、故国をはなれる船上で別れを告げている。誰一人私の腹痛に気付くものはない。しかたなく医務室をさがしにかかった。しかし、今乗船したばかりの長山丸は全長一〇七メートル、巾十四、五メートル、深さ七,四七メートルだ。どこにどんな部屋があるのか皆目わからない。探し歩くうちにも、四、五秒おきに激しい胃けいれんが起る。発作中は立っていられない。お腹をかかえて転がるよりみちはない。医務室は見つからない。そのうちにこんどは、激しい吐き気をくりかえす。吐き出したもののなかに、乗船前にしこたまお腹につめ込んだ「かに」がたくさんみえる。昨夜ずぶぬれになった体、冷えきった胃袋に「かに」をしこたまつめこんだ結果の激しい胃けいれんであったのだ。 
 イカリを巻きあげる音、別れを告げる汽笛が長く尾を引いて響いた。甲板では、「さようなら、さようなら」、「万歳、万歳」の声が起る。船は徐々に動きだした。私一人薄暗い船倉で腹をかかえて転がっている。これが最後だ。故国の山河をこの目でもう一度見つめておこうと、お腹をおさえながら船倉の小さな丸窓に顔をおしあてた。すれちがう船が目の前によぎる。船上の人が手を振っている。それはみな甲板に出ている大勢の兵隊をみあげて手を振っているのだ。私は遠ざかっていく門司港を、小さな丸窓から一人じっとみつめていた。
 その後佐世保で船団を組んで南方への船出だ。十三隻の輸送船が三列になって波しぶきをあげている。船と船との間隔約五、六メートル。私の船はs三番目である。佐世保港を出港する船が次々と黒煙をあげながら、水平線上に現れる。船団の前方には駆逐艦一隻が右往左往しながら船団の護衛にあたっている。上空には偵察機が一機旋回している。まさに歌の文句にある「ああ、堂々の輸送船」そのものである。
 乗船したその夜は与えられた畳一枚に八人が横たわることもできないまま、前の者の背に自分の膝をくっつけて夜を明かした。翌日からは、元気なものは各自の寝ぐらを求めて甲板へ出ていった。私も胃けいれんが治まると甲板へ出ていった。どこもかしこも人、人、人でいっぱいだ。やがて船内放送で「昼間はできるだけ甲板に出ないように。敵は物資より兵員を乗せた船を攻撃目標にするから。」と。しかし、船倉に入ると汗と油でむっとする熱気。どうにも耐えられないから、みな甲板へ出ていった。夜になると甲板上で寝ぐらを求めて横たわる。しかし、両足そろえて伸ばすことはできない。大の字に開いたその股の間に戦友の上半身がはいってくる。最大限の空地利用である。夜中に便所へでも立つものなら、自分の寝ぐらは完全に他の兵に埋められていやでも一晩中不寝番だ。
 外海に出ると波は大きくうねる。波というより、小山がおしよせるようだ。ご多分にもれず、全員船酔だ。幸か不幸か、私は乗船の時他の者よりお腹のものを全部吐き出したから、もう船酔は完全に卒業していた。お腹がすく。一人前の食事はきわめて少ない。しかし、この戦友の船酔が私のお腹を満たしてくれることになった。青い顔をして自分の食事を見つめてじっとしている。「どうだい、食べられんのか?」うん、お前食べてくれるか。」待ってました!「よし、食べてやろうか?」「俺がなおったら返してくれよ。」「よし、わかった。」と、こうして他人の不幸のうえに、二人前、三人前と食事にありつけた。
 船団は南へ、南へと進路をとっている。九月半ばすぎといえば、従来なら次第に涼しさを覚えるころだ。しかし、日を重ねるにしたがって暑さが増してくる。甲板上の照り返しは特にひどい。のどがかわく。支給されるお茶は、一日に茶のみ茶碗に一杯。飲んでしまえば翌朝まで干乾しのままだ。のどが乾くと、水筒のお茶を口に含む。しかしのどの入り口で止めて、また水筒の中へもどす。こんなことを一日中繰り返している。夜中過ぎになると、いくぶん涼しさを覚える。朝食の時またお茶が支給されるから、はじめて水筒の中のお茶を飲み込む。しかし、もうその時はお茶はどろどろになっている。
 のどが乾くと、たばこもいらん、食事もいらん、ただ水!水!水だ。船のクレーンの発動機から蒸留水が一滴、また一滴と落ちているのを見のがさなかった。飯盆のふたを持った兵の列ができる。ふたに半分ためるだけでも相当の時間がかかる。三分の一もたまると、後の者がせきたてて交代する。この一滴、また一滴と落ちる蒸留水を求めて長い長い列ができる。そんなしてたくわえたわずかばかりの蒸留水を飲み込むと、今度は下痢の連発である。
 食器を洗うために、海水をポンプで汲み上げている。大きなたるに、しかも太いホースから流れ出ている海水で食器を洗っていると冷たい感触に思わず飲みたくなる。飯盆にあふれる海水を一度だけ飲んだことがある。しかし、多量に塩分を含んだ南方の海水はことのほか塩辛い。のどが焼き付くようだ。二度と海水を口にすることはなかった。
 日がたつにしたがって、かなり南下しているのだろう。ますます暑くなる。腹はへる。のどはかわく。甘いものがむしょうにほしい。しかし、どれひとつ手に入るわけがない。そうしたころ、夜のデッキで車座になり、よく
食べ物ごっこをしてはしゃいだものだ。「おい、今晩は何を食べようか。」「そうだ、ぜんざいが食べたいなぁ。」「そうだ、ぜんざいにしよう。」・・・・「もう、煮つまったか?」「まだまだ。」「あずきがだいぶんとけてきたぞ。」「それ、餅を入れろ。」「五人いるから十個入れろ。」「もっと煮ろ。」「砂糖を入れるぞ。」「うん、しこたま入れろ。」「どろどろになってきたぞ。」「もっと煮ろ。」「餅がとけてどろどろになったぞ。」「そろそろ食べようか。」「はしでは、すくえんぞ。」「さじですくって食べよう。」「あっちち!」「あまいなぁ。」「この甘さ、たまらんぞぅ。」・・・・・・しばらくして五人一同に、「ああ、腹が減った。甘いものが食べたいなあ!」とため息をつく。そう、晩はきまってぜんざいの夢をみた。
 いよいよ敵の潜水艦が出没する海域まで南下した。船内の救命浮輪が《支給された。しかし、部隊(十数名)に二、三個だ。くじびきしたが、見事にはずれた。しかたなく、私は炊事場へ行って、たくわん樽をひとつもらった。夜になると、干パンと水筒と軍刀を抱くようにして、たくわん樽の中へおしりをすっぽり入れてまどろむことにした。海にほうり出されたら、樽が浮き袋になるという計算だった。
 もう、船団はあの魔のパシー海峡を航行中だ。このパシー海峡でどれだけ多くの艦船が撃沈されたことか。ここを無事通過することは奇跡に等しいといわれている。
 その晩は、三日月が淋しく波しぶきの間に見え隠れしていた。小山のような波の間を長山丸は、大きく上下左右に揺れながら進む。十月二日夜、しばしの間つけもの樽におしりを入れてまどろんだと思ったら、突然大きなドラの音で眼がさめた。敵潜艦の攻撃である。船団の各船は、荒れ狂う暗黒の波間で間断なく汽笛を鳴らしながら、全速航行に移る。間もなく、グワン!という衝撃音と共に、私はつけもの樽と共に二尺ほど放りあげられた。船は大きく右に旋回した。誰いうとなく、「やられた!」「船が沈むぞ!」「浸水を確かめろ!」「はい!」目の前の甲板の丸い穴にロープを下ろす船員、そして徐々にそのロープをたぐり上げている。甲板の全員が見守っている。「どうだ!」「まだ、わかりません。」・・・・しばらく不気味な沈黙が続く。「大丈夫です。大丈夫です。浸水していません。」一同、「ああ!助かった!」その時、ふと左舷を見ると火だるまになった先頭船の津山丸が後方に残されていく。その後間もなく、その津山丸は真二つに割れて沈没した。わが長山丸に命中した魚雷は幸にも不発弾であったという。
 その後、船団はたびたびの敵潜艦の魚雷攻撃をかわしながら南下していった。佐世保を出たときは、その勇姿をみせていた友軍の駆逐艦も偵察機も、最も護衛を必要とするこの魔のパシー海峡にさしかかる頃から、その勇姿?を消していた。思うにわが十三隻の輸送船団と引き換えにするには、あまりにも貴重な駆逐艦であり、偵察機であったらしい。
 そして十月七日未明、リンガエン湾にて、またわが長山丸の左を航行していたマサッカル丸が撃沈された。
 九月十七日、乗船前夜ずぶぬれになって以来着の身着のままだ。汗と油で顔も手足もどす黒い。いんきん、たむしがこのときとばかり全身にはびこる。入浴はおろか、身をふくこともできない。しかし、ありがたいことに南方特有のスコールがときおり船団の上を通り過ぎる。あわてて、石けんを身にぬりつけてごしごしと沐浴。なんともいえない快感。しかし、スコールの雲を見て早くから全裸になり、全身に石けんをこすりつけてスコールを待ってると、スコールは意地悪く船団を横目にかすめて素通りすることがよくあった。そのあとが大変、次のいつくるはわからないスコール来襲まで、石けんを身にぬりつけたままで過ごしたことも、いくどもあった。
 行けども行けども海また海。時々訪れるものは敵の潜水艦。わが船団の護衛は駆逐艦と偵察機にかわって、木の葉のような小さな駆逐艇、四、五隻のみ。この駆逐艇が大波におし上げられ、引き下げられ、波間に見えなくなる。それが船団の唯一の護衛とは心ぼそいかぎり。
 行き先は皆目わからない。フィリピンかシンガポールか、ジャワか。南下していることは確かだ。撃沈されなねれば、いつかどこかの地に上陸するのだ。淡い希望を抱きながら、くる日もくる日も全身を船にゆだねて揺られて行くばかりだ。


ここで、綴り終られていました。
戦地へ向う船旅の様子が書かれていましたが、十分な水分も食料も希望もない、極限状態を想像しながら、読み進めました。

今、もしも、子ども達が戦いに行かなければならない状況だとしたら、絶対反対です!

当人達も「めんどくさい!はぁ?誰が行くん?意味不明やし」と即、怒りも込めて跳ね除けそうです。

 ネットワークが発達し世界の情報を気軽に得られる現代、すべき事もやりたい事も優先順位を自分で決めて生きていける、自分の希望も夢も持って進めていける時代となってるはずなのに、今日も地球上では戦争や紛争が起きています。

人と人が争う?
国同士が戦う?

そんな恐ろしい事考えられませんし、関わりたくもないです。

でも、事実、亡き祖父も戦地へ赴き戦わなければならなかった日々があった事、決して忘れてはいけない過ちを今一度、教訓にして、平和で心穏やかに喜ばしい時間を過ごせたらと願います。

お立ち寄り読んでくださり
ありがとうございました🙇‍♀️

サポート大歓迎です!創作活動等に使わせて頂きます。