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見えぬ救い手

※本文には、有り体に言えば【差別用語】とされる語句が混じっていますが、参考にした資料が執筆された時代背景を尊重し、敢えてそのままの表現を用いました。誰かを貶めたり蔑む意図は一切御座いません(何なら書いている本人も足が不自由で松葉杖無しでは外出も侭為らない身です)。予めお断りしておきます。


先日、フォローしているクリエイターさんの記事にて「カミサマは善人ばかり傍に置きたがる、だから"少しだけ悪漢"たれ」と記されていた旨について少し触れた。

この呟きを記した後で思い出した事がある。
アルゼンチンの文豪、ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる【幻獣辞典】に、以下のような一文があるのだ。

地上には、神の前にこの世を正当化する使命を帯びた正しき人間が三十六人いる、またつねにいた。それはちんばのウーフニックたちである。
彼らは互いのことを知らず、そしてたいへん貧しい。もし自分がちんばのウーフニックであることを悟ると、その者はすぐに死んで、たぶんこの世のほかの場所にいる別の誰かがそのものに替わる。ちんばのウーフニックたちは、それと知らずに宇宙の隠れた柱になっている。彼らがいなければ、神は人類を全滅させてしまうだろう。気づかないままに、彼らはわれわれの救い手となっている。
ユダヤ人のこう言う神秘的な信仰はマックス・ブロートの著作に見出される。その遠い源は創世記第十八章の次の詩句だろう。「ヤハウェ言いたまいける、われもしソドムにおいて町のなかに五十人のただしき者をみば、そのところをことごとく赦さん。」
回教徒にもクトブという同様の人達がいる。

(柳瀬尚紀訳)

【幻獣辞典】より

全能神が人間を滅ぼさない為の抑止弁として生み出され、この世の幸せを享受する事も出来ずに貧しい暮らしを強いられ、そして己の存在意義アイデンティティを知ると直ぐに死んで他の誰かにその役割を委ねる。何と哀しく儚い人生であろうか。

これは全く個人的な想像になってしまうのだが、ボルヘスが上記を綴った頃、巷間には不本意な暮らしを強いられた挙句、不本意なカタチで天に召される人々が現代よりもずっと多かったのではあるまいか。
残された人々は逝ってしまった同胞の死を嘆き、次に無慈悲に彼等の命を奪った神を憎んだのだろう。そして残された人々は時が経つにつれて自らの中で彼等の死に折り合いをつけ「彼等が夭逝したのにはきっと大きな理由があったのだ」「彼等は全人類の免罪の為に遣わされた存在だったのだ」「彼等の死は無駄では無く、私達の未来の為にその命を捧げたのだ」と考える事で自らを納得させたのだろう。そうした思いが生み出した概念がちんばのウーフニックであり、クトブなのだと思われる。

そう思うと、今の我が【生】もそうした人々ありきなのかなとさえ思え、身が引き締まる気持ちになる。例え、その人生が空虚で、意味がないものなのだとしても。

自身がそれであると知らずに生き、自覚を得ると即座に逝ってしまう儚い彼等にワタクシの口から謝意を述べる方法は無いと思われる。この謝意は、自分以外の他の誰かの為に取っておこう…と思う。何故ならちんばのウーフニックやクトブ以外にも、ワタクシを支えて下さる方々は大勢いらっしゃるからである。


マックス・ブロート●1884年生まれのユダヤ人作家。オーストリア出身。同じく作家であるフランツ・カフカの朋友であり、その作品の編集者として知られる。代表作に【チェーホー・ブラーエの神にいたる道】など。1968年沒。
ソドム●旧約聖書に登場する、道徳が失われ退廃した町の名。同じく道徳が失われたゴモラの町と共に唯一神ヤハウェの怒りを買い、火の雨によって滅ぼされた。

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