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生卵

映画【ロッキー】で、シルベスター・スタローン演じるボクサーの主人公が自身の運命を賭けた一戦の前に、大きなジョッキに大量の卵を割り入れてそれを一気に飲み干すシーンがある。
英語圏では生卵をそのまま食す行為は野蛮な奇行(平たく言えば下手物扱い)と考えられており、海外ではこのシーンがスクリーンに映し出された時には客席から悲鳴が上がったそうである。
【ロッキー】のこのシーンは【主人公が背水の陣を覚悟した上での半ば自棄っぱちの行動】と言う風に解説されていたかと思うが、日本の視聴者達はかのシーンを見て一様に同じ感想を抱いたと言う…つまり、

「嗚呼、大事な試合を前に、リキをつけたくて生卵をたくさん飲んだんだな」。


日本は、卵…殻を除いた全卵を【生で食べる】事が出来る世界でも甚だ稀有な国なのだそうだ。世界中何処を探しても、日本以外の国で生卵を日常的に食べる国はほぼ存在しない(海外での生卵の使用例を調べてみたら、タルタルステーキの添え物に卵の黄身を乗せたり、ミルクセーキに溶き卵を混ぜる以外に例が存在しなかった。因みにマヨネーズは生卵から作るものではあるが、酢と食用油を加え撹拌する【乳化】と言うプロセスを踏むので、本記事では生食の範疇外とする)。
これは日本に於ける卵生産の衛生管理がしっかりしている事、逆に海外では日本のような卵の衛生管理が難しいと言う背景がある(最も衛生管理に重きを為すあまり、特に昭和時代辺りは採卵用の鶏の管理が些かシステマチック且つ非人道的なやり方となり、基本的に家禽は屋外でのびのび過ごさせる欧米のやり方とは著しい乖離があった事を付記せねばならない。流石に現代ではかなり改善はされていると思うが)。

高度経済成長期、モーレツに働くサラリーマンが、滋養強壮を謳って生卵を啜る(殻に小さな穴を開けて中身を掻き混ぜ、そのまま中身を飲む)と言う描写を漫画や風刺画でちょくちょく見かけたものである。
英語圏では【生卵を常食にするのは日本人と蛇だけ】と言うブラックジョークさえ存在する程だ。

卵と言う食材は、昔から高い滋養の作用があると考えられている。実際卵は豊富な蛋白質・脂質・各種ビタミンを含み、栄養に富む食材である(卵ばかり食べる蛇が存在するのもそれ故であろうと思われる)。但し、卵の白身には【核】を護る為のある種の抗生物質が含まれており、特定のビタミンに対し血液中の白血球のような作用を齎す。その為、生卵…特に白身を多食すると、ビタミン欠乏症になってしまうので注意が必要である(因みに加熱すればこの抗生物質は無力化される。気になる方はある程度加熱された卵料理を食べると良いだろう)。

以前【ムラサメと卵かけご飯】でも触れたが、池波正太郎先生の小説で、赤穂浪士が討ち入り前に体を暖める為に各々集まって酒杯を交わすシーンがある。
この時酒肴に出されたのが、酒と醤油で炊いた鴨肉を細かく切ったものと刻みネギをふんだんに溶き卵に混ぜ、炊きたての米飯にかけたもの(今風に言えば卵かけご飯)だったと言うのだ。
赤穂浪士討ち入りと言えば五代目徳川家将軍・綱吉公による治世の頃だと思うが、この頃鶏卵は庶民には手が届かない位かなり高価なもので、更に今より衛生管理も徹底出来ていなかっただろうから、本当に赤穂浪士達が卵かけご飯を肴に酒を飲んだのかは議論の余地があるように思う。だが、仮に赤穂浪士達が実際に卵かけご飯を食べていたのだとしたら、日本人が生卵を食べる文化は江戸時代中期には既に存在していた事になる。

現代では、多少の値段の変動はあるものの卵の生産は江戸時代に比べるとずっと安定しており、それこそ全国民が卵を食べる事が可能になった。
卵かけご飯に関しては、近頃は多様なトッピングを楽しんだり、専用の醤油が販売されていると聞く。他方、働き方改革の影響があってか、サラリーマンがリキをつける為に生卵を啜る描写は過去のものになって久しい。
近年では食材の衛生管理の水準を欧米並みに引き上げるべきと言う声もあり、もしそれが実現に至った場合日本でも卵の生食が禁止される可能性もあると言う。
日本人と生卵の関わりも、時と共に変化していくと言う事だろう。

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