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マン・イーター

UMA(未確認生物)の概念を広く世に知らしめた文筆家の實吉達郎先生は、過去に幾つかの著書の中で所謂【人喰い】(Man-Eaters)になってしまったライオンの実例を紹介している。

人食いライオンの正体は、ライオンが歳をとって、すばしこい獲物をとれなくなったためだとか、負傷や病気をしたライオンだというのはうそである。そう言う場合もそうでない場合もある。

【世界の怪動物99の謎】より

實吉先生は人喰いライオンについて、上記の旨を述べられている。

従来、ライオンは【プライド】と呼ばれる群れを形成し、メスが群れで大型の植物食動物を狩る一方、オスは我が子と縄張りを護る為に活動するのが一般的なパターンだと考えられていた(群れの力を頼みに自分より大きな獲物を屠る事で狩りに費やしたエネルギーを大幅に上回るエネルギーを獲得する為の戦略で、こうした行動を取る動物としては他にリカオンやブチハイエナ、シンリンオオカミが挙げられる)。事実、大多数のライオンの暮らし振りは前述の通りなのだが、中には環境等の要因によりプライドの形成が難しい場合もある。そうした地域のライオンは群れの個体間の結びつきが甚だ希薄になり、オスもメスも単独で狩りを行い、得られた獲物は狩った個体が独占するようになる。
インドのギル森林公園に600頭程残されているアジアライオン(インドライオン)はその典型で、彼等はオスもメスもシカやイノシシ等を積極的に狩る。アジアライオンが人喰いにならないのは獲物が比較的豊富な事(インドは一時期生態的地位のトップに君臨していたベンガルトラが個体数を減らした影響で、シカやイノシシの個体数が爆発的に増えた事がある)、保護活動の関係で人馴れした個体が存在する事にも依るのだろうと思われる。

然し、獲物が乏しく、ライオンが人馴れしていない地域ならば話はがらりと変わる。
特にアフリカは内乱やスポーツハンティングの影響で、ライオンの獲物となる大型の植物食動物だけでは無くライオンそのものが個体数を減らしている。そしてそう言う地域では、ライオンの献立の一部はしばしば人間によって賄われる。人間は武器を取れば様々な動物を残酷に屠れるが、丸腰ではイヌやネコにだって殺され得る程に脆弱なのだ。優れた狩り手であるライオンが相手ならば何をか言わんや…である。

ライオンによる人喰いの記録は、探せばかなりの数存在する。

ライオンによる殺人の最高記録保持者はミキンダニ(タンザニアの一地域)に出没した人喰いライオンである。このライオンはハンターに斃されるまでに実に380人もの命を奪った。
また、ザンベジ川周辺で【マジリの人喰いライオン】と呼ばれた個体はヒトを襲い被害をもたらしつつも、一方でスイギュウ等を狩る健康な個体だった。
【バロッツェランドの人喰いライオン】は全長3メートル近くはある、健康な壮年のオスライオンだったそうだ。

中でも取り分け名が知られている人喰いライオンが、今回語る【ツァーヴォの人喰いライオン】である。

ツァーヴォの人喰いライオン(Tsavo Man-Eaters)は、1898年3月から同年12月にかけて現在のケニアに流れるツァーヴォ川付近で猛威を振るった2頭のライオンである。この人喰いライオンの話題は世界的に有名になり、日本の動物文学の白眉・戸川幸夫先生の傑作【人喰鉄道】の執筆の切っ掛けともなった。

当時、ケニア―ウガンダ間のウガンダ鉄道敷設に伴い、ツァーヴォ川に橋を架ける工事が進められていた。その工事中、工事現場に突如2頭のライオンが現れて労働者を襲い、少なくとも28名の労働者が犠牲になった(犠牲者の数には諸説あり、130人に及ぶとする説もある)。鉄道現場総監督のジョン・ヘンリー・パターソンは時に労働者達による反発に遭い、時には暗殺の危機に晒されながらも外部からの協力を得て2頭のライオンを追い詰め、最終的に2頭とも射殺する事に成功した。

この人喰いライオンはオス(同腹の兄弟だったと考えられている)であったが、2頭ともタテガミを生やして居なかった。
ツァーヴォ川周辺は大きな木が少ない為、高気温がダイレクトに地表を焼くのみならず、地の熱から逃れる為の影がある場所も極端に少ない。ツァーヴォ川周辺のライオンはこうした環境に適応し、オーヴァーヒートを起こさないようにオスライオンもタテガミを持たない(あっても非常に毛量が少ない)。
更にツァーヴォ川周辺は、イボイノシシより大きな植物食動物が極端に少ない事でも知られる。背景には過去、スイギュウやアンテロープ類がウシの伝染病により壊滅的なダメージを被り個体数が激減した事があるようだ。こうした厳しい環境でライオン達は群れでの狩りを捨て、ライオンにしては珍しい【個人主義】的な生活を送るようになった。

日々単独でイボイノシシ(或いはそれより小さな獲物)を狩って喰い繋いでいるツァーヴォ川周辺のライオンにとって、武器を持たない無防備な労働者はまたとない御馳走に見えてしまったに違いない。更に言えば当時、疫病等で死亡したヒトの屍を野葬宜しく谷に捨て、肉食動物(勿論ライオンも含まれる)が食べるに任せていたのも良くなかった。
ツァーヴォの人喰いライオンと言う事件は、稀な偶然と、ライオンが持つバイタリティとが連鎖して起きた不幸な事故とも言えるだろう。

パターソンによって斃された人喰いライオンは皮を剥がれて敷物にされた後、剥製に加工されてシカゴのフィールド自然史博物館に展示された。2000年代になってケニアが剥製の返還をフィールド自然博物館に求めたが、退けられてしまったと聞く。暫く敷物にされてからの寄贈だった為に毛皮は傷みが激しく、剥製業者は毛皮を剥製にするのに大変手間取ったそうだ。

ツァーヴォの人喰いライオンの剥製。
フィールド自然博物館蔵。
(ウィキメディア・コモンズより借用)

最近では、2000年代にクロサイの密猟に入ったハンター3名がライオンに襲われ喰われた事例が公表され世界の動物好きを慄然足らしめた。明るみに出ていない被害例が多数存在すると言う指摘もある。それについては、實吉先生のこの言葉をお借りしよう。

今ではライオンの絶対数が少なくなったから、人食いマン・イーターもそれにつれて少なくなっただけの話である。でなければ、ヒトもライオンの獲物のまれな一部にすぎないのである。

【世界の怪動物99の謎】より


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