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真夜中の食文学

この間、機会があって開高健先生の【最後の晩餐】と言う本を古本屋で見つけた。発行年代を見ると昭和末期、恐らく名随筆【オーパ!】の第一作を執筆する為にアマゾン入りした頃の本のようである(実際、【オーパ!】内で触れられていた逸話が短文ながらちょくちょく登場している。ワタクシは読みながら内心「嗚呼この逸話は確か【オーパ!】の第何章かにも書いてあったなぁ!」と思いながら大いに楽しませて頂いた)。
アマゾンでの釣魚の顛末については【オーパ!】を御覧頂くとして、この【最後の晩餐】と言う本はタイトルに叛かず【食】に焦点を絞って書かれた一冊である。とにかく内容の密度の高さ、言葉選びのセンスの良さ、そして列挙された料理のレシピの豪奢さに圧倒され、読破した時は魂が抜けそうになった。これ以上はネタバレになるので仔細は伏せる。機会があれば図書館か古本屋を覗いて見て欲しい。

ところでこの本には、開高健先生の他にも多数のグルマンディーズの名が列挙されている。開高健先生の交友の広さが伺える。
中でもワタクシの目を引いたのは阿川弘之先生の名前だった。阿川先生の食通振りは相当なものであり、半ば伝説と化しており(個人的見解)、それにまつわる作品も存在する。
過去に何かのアンソロジーで拝読したが、とても素晴らしい作品だった(語彙力何処行った)。

あまりネタバレするのも気が引けるのだが、【最後の晩餐】で阿川弘之先生が登場する一幕で面白い一文があったので掻い摘んで紹介したい。
開高先生が、都市部で震災が起きた時の備蓄を用意しているのか、小説家仲間に確認を取るひと幕がある。阿川先生はこの問いを受け、以下のような豪放磊落な返答を返したそうである。引用させて頂く。

◎ない。何もしてない。何も買いおきしていない。きたらそれまで。空港がオープンするまで待ってハワイへと逃げようか。

開高健【最後の晩餐】内【ありあわせの御馳走】より

ところで、開高健先生の記述と阿川弘之先生の記述は、メニューこそ豪奢でとてもワタクシのような凡人には手が出ないシロモノだが、例えば北大路魯山人御大の作品のような一種独特な威圧感、または貧乏人に対する拒絶感が無いように感じる。魯山人御大の記述は抽象的過ぎると言うか、何処となく取っつきにくい印象がある(魯山人御大がフグの滋味を古刹の仏像に例えて表現されていたのには流石に呆気にとられた。幾らなんでもイメージが漠然とし過ぎる)。
対して開高先生・阿川先生のそれは我々には手に届かないような饗応でありながら、読んでいて「判る!」と頷く事が度々あった。食べた事のない饗応なのに。
文章の中の料理の描写に、確かな実体感があると言うか…。

なんて事を思いながらふと部屋の片隅の【積ん読】を見る。そこには【残るは食欲】(阿川佐和子さん・著)が鎮座ましましている。
周知の事実で今更述べるのも何だが、阿川佐和子さんは阿川弘之先生の娘さんである。元は報道番組のキャスターとしてキャリアを積まれ、渡米・帰国を経て文筆家になられた。確かワタクシが阿川佐和子さんの作品を知ったのは、阿川佐和子さんの【盟友】でもある女優・檀ふみさん(奇妙な縁だが、阿川佐和子さんと檀ふみさんには【お父君が文豪で且つグルマンディーズ】と言う共通点がある)との共著【ああ言えばこう食う】では無かったかと思う。読んでみるとテンポがとても良くてグイグイ読み進められてしまう。あたかもマイナスイオン効果で疲れ知らずの状態で森林を闊歩する様子に似ている。

そして幾許かの月日を経て、【残るは食欲】が我が家の積ん読の仲間入りをした。
改めて手に取って読んで見る。テンポの良さは【ああ言えばこう食う】そのままに、食材に対する優しい眼差しが何とも心地良い。
お父君の食にまつわる作品とはベクトルが異なるのだけれど、読み進めていると食に対する暖かな気持ちを感じる。読後の後味も何とも爽やかである。そう、同書で触れられていたカクテル【フランシス・アルバート】を飲んだ後の朝のように。

フランシス・アルバート(カクテル)→タンカレー・ドライ・ジンとワイルド・ターキーを同量合わせてステアしたもの。名前は稀代の歌手フランク・シナトラの本名に由来する。

参照・阿川佐和子【残るは食欲】内【フランシスの朝】

とか何とか言っていたら、何故だか急に酷い空腹感を覚えた。
食にまつわる文学作品は、夜中に読むものではない。

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