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猫とコンビーフ

コンビーフの値上がりが凄まじい。

ワタクシが東京に住まうようになったばかりの頃は、純正のコンビーフでさえ300円前後、馬肉やスイギュウの肉が交じるコンミートならば100円ショップで気軽に買える代物だった。それが現在ではコンミートでさえ300円で買えるかどうか怪しく、純正のコンビーフに至っては無加工の牛肉と大差無い程高級になってしまった。一時期は100円ショップ専用に少量をパッキングしたコンミートが売られていたが採算が取れなかったらしく、短期間で市場から姿を消している。

あちらでも物価上昇、こちらでも物価上昇…と民草の暮らしは年々圧迫される一方だが、それに対する呪詛は本記事の主旨では無いので割愛する。

前述の通り、コンミートは以前は手軽に買える食材のひとつだった。
若い時分、ハマっていたコンミート料理がある。コンミート丼とコンミート入りカレーである。

コンミート丼は、コンミートひと缶をフライパンで軽く炒め、醤油か焼き肉のタレをちらりと垂らして米飯の上に乗せ、卵の黄身を落とし刻みネギを散らした一品である。コンミートを炒める時に油を極力使わない(コンミート自体に脂がたくさん含まれるので)のがコツである。醤油または焼き肉のタレの軽く焦げた風味が良く、ご飯が進む一品だ。
コンミート入りのカレーは、確か秋葉原のネットカフェで見かけて自作するようになったのだと思う。業務スーパーで売っているような具なしのレトルトカレーを鍋にあけて暖め、ほぐしたコンミートを入れて暫く煮込むだけで良い。繊維状にほぐれたコンミートを噛みしめると口の中に肉の滋味が広がり、ごろごろ牛肉で作ったビーフカレーとはひと味違った風味が楽しめる。

そんな具合で、若い頃は随分とコンミートのお世話になった。だが今やそれは不可能になり、何なら豚こま肉や鶏肉を買った方が遥かにコスパが良いと言う有り様である。昔日の気軽に購入出来たコンミートはもう戻っては来まい。暗澹たる気持ちになるのはワタクシだけだろうか。

さて、そんなコンビーフ・コンミートで、忘れられない思い出がある。

ある日、近所の100円ショップに食材の買い出しに出かけ、レトルトご飯やら缶詰やらをしこたま買い込んで帰路についていた時の事である。
途中にある神社の参道でひと休みしていたら、コンビニ袋にワタクシが買った商品と同じ種類のコンミートをたくさん積めた老婆が姿を現した。
老婆はワタクシの存在などまるで意には介さず、餌皿らしき皿にコンミートを残らずあけてほぐすと、卵を割ってそれに混ぜ、茂みに向かって何か呼びかけた。
老婆の声に答えて姿を見せたのは、所謂"地域猫"と呼ばれる野良猫達だった。老婆は野良猫が姿を見せるや、溶き卵を混ぜたコンミートを猫達の前に差し出す。猫達は貪るようにコンミートを食べ始めた。

それを見てワタクシがどれだけショックを受けたか、言語化が難しい。
細々と暮らしを立てている独身男が日々の糧にしているのと同じコンミートを、よりにもよって野良猫の餌にするとは…ワタクシは物凄く惨めな気持ちになって帰宅した。

何年か後、この出来事を知人に打ち明けた事がある。すると知人は顔を曇らせ、猫の健康状態が気がかりだ、と呟いた。
曰く、猫の腎臓は単純な比較で人間の五分の一程度の塩分処理能力しかないのだそうだ。そんな猫達にとって、人間の食べ物を与える事は塩分処理で腎臓に通常の五倍負担をかける事になるのだと言う。
あの老婆は良かれと思って猫にコンミートを与え続けていたのだろうが、それは長期的に見れば猫の健康を著しく損ねる事に繋がる訳である。

ワタクシはその後今の在所に転居してしまい、あの神社の猫と老婆のその後については知らない。老婆は恐らく墓の土だろう。ただ、他の誰かが老婆の後を継ぎ、同じように猫にコンミートを与えてない事を祈るばかりである。

余談になるが、コンビーフに卵黄とバターを混ぜた【特別食】は、稀代の文豪・内田百閒先生の【彼は猫である】【ノラや】に登場する猫・ノラが風邪をひいた時に作って食べさせたものでもあるらしい。あの老婆が猫にコンミートを与えていたのは、もしかして内田百閒先生の作品にヒントを受けたのだろうか。

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