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紙媒体の存在の軽さ

イラストにしろ、折り紙作品にしろ、テキストにしろ、日本では(名の売れたプロならいざ知らず)在野のクリエイターがこれらのコンテンツに値段をつけた瞬間、どうも蔑ろにされがちと言うか

「えー料金取るの?おかしくない?」


と小馬鹿にするようなリアクションを取られがちな気がする(特にイラスト)。

pixiv辺りでは未だにプロの絵師に軽率にリクエストをかまし、絵師が有償だと返すと罵詈雑言を吐き散らして騒ぐ愚昧な輩が少なくない。
イラストは、媒体そのものは近年アナログ(≒紙媒体)よりデジタルの方が比率が高まっている(当たり前の話だが、デジタルのツールがあるからと言ってズブの素人が一日で神絵師になどなれない。アナログだろうがデジタルだろうが神絵師になるには長年の鍛錬が必要なのである)ようだが、軽視されているのは相変わらずである。
いや、絵だけの話では無いのだ。
ワタクシは過去に何度も、作って自室に飾っておいた折り紙作品を無言で持ち去られた事があるし、何なら「テクパンさん○○くらいパパッと作れるでしょ?作ってよ」とか言われてムッとした事も一度や二度ではない(最もワタクシの場合、ことこの3〜4年に関しては自らの意思で作品を作って誰かに提供する機会の方が圧倒的に多い。これは幸運な事なんだろうと思う)。
テキストについては…同人誌として販売される小説の値段が安い事を根拠としたい。余程の文字数がある本格的な内容のものであればそれなりの値段がつけられているが、そうでない場合、漫画形式の同人誌よりかなり安く価格が設定されている。電子図書の同人誌に至っては無料で読めるものさえあるのだ。
以前モノ書き系の同人作家の知り合いがいて、聞いてみたら「文字のみの同人誌は強気な値段設定をすると先ず手に取ってもらえない」と嘆いていた。例外は多々あろうが、概ねこの言葉が正解なんだろうと思う。

ワタクシはこれ…イラストやクラフトやテキストの【コンテンツとしての価値】を軽んじる風潮…を『日本に置ける紙資源の豊富さと、そこに由来する存在感の軽さ』が原因ではないかと考える。

和紙の製造技術が日本でいつ頃確立したのかワタクシは寡聞にして知らないが、江戸時代には【瓦版】(今で言うスポーツ新聞の号外みたいなもの)が存在し、【黄表紙】(今で言うペーパーバックに近い書籍)が存在し、【千羽鶴折形】【かやら草】と言った折り紙の手引書が存在する位なので、恐らくその頃には日本に置いて【紙】と言う素材は割とありふれたモノだったのではないかと想像する(間違っていたらお許しあれ)。
そうした背景を維新後から高度経済成長期辺りまで長らく引き摺って来た為に、日本人の多くが紙を媒体とするカルチャーに対して

『材料さえあれば気軽に出来る』


位にしか考えなくなっているのではなかろうか。
それも個人個人の思想が云々…と言ったレベルでは無くて、恐らくは日本人の大多数の遺伝子レベルで染み込んでしまっているのでは無いかと思う。そして言わば【遺伝子レベルのサジェスト汚染】によりクリエイターがその技術を体得するのに費やした年月は無視され、ただ「無償で描け」「無償で作れ」と宣う人々が増える結果になっているのでは無いだろうか。飽くまで想像だけど。

アメリカ辺りではコミッション(ユーザーがわざわざクリエイターを指定し、前払いで料金を払って絵や作品を製作してもらうシステム)が盛んらしいが、日本では斯様なカルチャーの定着はなかなか難しいのではないかと想像する。
何しろ日本人の大多数は「わざわざ誰かを指定して代金を払い、作品を製作してもらう」と言う思考が皆無に近いのだから。

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