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ゾンビサーモン

(ヘッダー画像はウィキメディア・コモンズより。種類はベニザケ)

敢えて引用は避けるが、今年の2月頃にXでとあるポストが炎上の種になった。

川を遡上し、産卵を終えて死ぬ間際の鮭(ポスト発信者の言によるとアトランティックサーモン)の写真を紹介したもので、そのポストには【産卵を終え精魂尽き果てた鮭は生きながら様々なウイルスに感染し、徐々に生き腐れになりながら死んで行く。これをゾンビサーモンと言う】とあった。

これが日本のXユーザーから猛反発を喰らった。何ならワタクシもこのポストを引用し怒りの言葉を投稿した。

ゾンビサーモン(ZombieSalmon)は海外特にアメリカで使われる俗語らしいのだが、軽く調べた限りではかなりローカルな俗語であり決してメジャーな言葉では無いようだ。
アメリカと言う国には、死にかけて外見がボロボロになった動物にカジュアルに【ゾンビ】とつけたがる文化があるらしい。

元々ゾンビとは、ハイチのヴードゥー教の伝承に登場する黒魔術師ボコールが使役する仮死状態にされた重罪人、或いはそれに憑依する蛇の精霊の呼び名である。
黒魔術師は、重罪人の身元を引き受けるとその体に特別な薬(フグ毒等が含まれるとされる)を塗布して仮死状態にする。そして意識を取り戻した(但し自我が失われている状態)重罪人に様々な単純労働をさせ、贖罪の為の奉仕活動と為したのである。

ところがこのハイチの伝承を、著しく歪める出来事があった。ハリウッドで【特定の要因で死の眠りから覚めた屍が人間を虐殺する】と言う趣の映画作品が作られ、その動く屍が【ゾンビ】と呼ばれたのである。背景にはアメリカ政府によるヴードゥー教へのネガキャンもあったようだ。以来、ゾンビと言う語の本来の意味は失われ、特定の要因(ウイルスだったり薬品だったり宇宙からの良からぬSomethingだったり)により死の眠りから目を覚ました活きる屍を指すようになってしまったのである。

それらを踏まえると、ゾンビサーモンと言う俗語が如何にリスペクトに欠けた言い回しであるかが痛感出来る。ハイチの伝統文化に対するイメージを歪め、同時に産卵を終え命を全うする瞬間の鮭を、死に損ねの活きた屍呼ばわりしているも同じなのだから。

言うまでも無く、鮭が産卵後に力尽きて死ぬのはゾンビ化ウイルス等の要因では無く鮭の身体的システムがそうなっているからに過ぎない(咬傷からウイルスが侵入する事はあろうが、生きながら鮭をゾンビ化させるウイルス等存在しようがない)。
そして産卵を終えた鮭がボロボロなのは、孵化した稚魚が海に下り、数年を経て産まれた川に再び戻るその過酷な旅路で身に蓄えた栄養を消費し尽くし、産卵場所を巡って同族と激しく争い、傷つき精根尽き果てたからである。言わば産卵後の鮭の姿は命の炎が消えかけるまさにその最後の瞬間であり、死に損ねて黄泉帰った浅ましい姿では無いのである。

重ねてつけ加えると、産卵を終えて死んだ鮭の骸はやがて分解され、プランクトンの栄養となる。そのプランクトンをより大きな動物性プランクトンが摂取する。その動物性プランクトンは、巡り巡って孵化した鮭の稚魚の餌となる。
それだけに留まらず、川岸に打ち寄せられた鮭の骸は陸上の様々な動物に取って貴重な動物性蛋白質となる。カラスや猛禽類がしばしば打ち寄せられた鮭の骸を啄む姿が見られる。キツネやイタチが鮭の骸から肉を齧る姿が見られる。時にはハクチョウが凍った鮭の骸を啄んで飢えを充たす光景が見られる。
そうして、鮭の骸を食べた動物達が森の中で食べた鮭の骸を消化し排泄を行う事により、最終的に鮭の骸は陸上にその栄養を循環させ、森を豊かにさせるのである。

この流れを知っている人間ならば、産卵後ボロボロになりながら川の流れに逆らって泳ぐ鮭を見て「ゾンビだ」等とカジュアルには叫べまい。
くだんのポストの発言者が、何を目的にゾンビサーモンの語を持ち出したかは知らないが、Xの一部では「インプレッション稼ぎの為に調べもせずにテキトウな事をポストしたのだろう」とかなり冷ややかな視線を送る向きが圧倒的に多かった。当然だ。

因みに北海道では川を遡上したばかりの婚姻色が出た鮭を【ブナケ】産卵後ボロボロになった鮭を【ホッチャレ】と呼ぶ。アイヌの人々はホッチャレの事を【チナナ】と呼び、冬の貯蔵食としてホッチャレ…産卵を終えた鮭を捕まえては燻製に加工して保存していた。遡上したての鮭では身に脂が乗り過ぎて長期保存に向かないとされ、産卵後の身の脂が落ちた鮭を率先して獲ったと言う。これは同時に鮭の資源保護の意味合いも兼ねていたのでは無いかと、個人的には素人考えを巡らせたくなる。

序でながら、【サーモン】の語句について少し解説を加える事にする。
鮭は海水域と淡水域を往復する魚で、理論上は淡水魚にカテゴライズされ、寄生虫に対する懸念から基本的に生食が禁じられている(マイナス30度以下の業務用冷凍庫で冷凍し解凍したものに限ってはその限りでは無い。因みに北海道の厳寒部で、冬の夜間に屋外で凍らせた鮭を削ぎ切りにして刺身のように賞味する"ルイベ"はアイヌの人々の伝統料理のひとつである)。
寿司屋で【サーモン】の名で出ているのは、海水域で畜養し極力まで寄生虫を排除したニジマスである。ニジマスは淡水域に留まる個体群と降海する個体群が存在し、降海するニジマスは【スチールヘッド】と呼ばれ、釣魚として珍重される。この性質を上手く利用し、ニジマスを海で畜養し提供し【サーモン】と呼称している訳である。
また、英語圏では【Salmon】と【Trout】の呼び分けに厳密なルールは無く、スチールヘッドに至っては【トラウトサーモン】の呼び名もある。日本で【◯◯マス】と呼ばれる魚でも、海外では◯◯Salmonと呼ばれている魚は少なくない(例・マスノスケ(KingSalmon)、カラフトマス(HumpbackSalmon)サクラマス(CherrySalmon)…等)。
また、Salmon=アトランティックサーモンの事であると言う巷説もあるが、これも科学的には正確では無い(敢えて言語化すれば、商業展開上の便宜的な呼称に過ぎない)。
因みに日本で最も多く遡上する鮭であるシロザケの英語での呼び名は【ChumSalmon】である。

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