ステュムパーリデスの鳥
(ヘッダー画像はウィキメディア・コモンズより拝借しました)
【ヘーラクレースの12の難行】は、ギリシア神話を履修しておられる方には有名だろう。
女神ヘーラーにより狂気を植えつけられ、誤って我が子を殺した英雄ヘーラクレースが、子殺しの贖罪と、昏君エウリュステウスの奴隷と言う身分からの開放の為に挑んだ12の冒険の事である。
その12の難行のひとつ(因みに6番目だそう)に【ステュムパーリデスの鳥討伐】と言うものがある。
アルカディア(現代のペロポネソス半島)のステュムパーロスと呼ばれる湖の畔にある森林地帯に、ある時異形の怪鳥が群れを為して棲みついた(ステュムパーリデスと言う呼び名はステュムパーロスの複数形)。
この鳥は軍神アーレスの眷属で、青銅の羽毛・爪・嘴を持ち、近隣の畑を荒らし、有毒の排泄物で森を枯らし、時には鋭利な翼で斬りつけてヒトの命すら奪ったと言う。当然ながら近隣の住民は幾度もこの鳥を退治せんと挑んだが、悉く返り討ちにされた。
ヘーラクレースは戦女神アテーナーの神託を得、鍛冶神ヘパイストスが作った【鳴子】(大きな音を立て鳥獣を脅し侵入を防ぐ道具)を鳴らして怪鳥達を驚かせ、飛び立った隙をついて弓で怪鳥を悉く射落として退治したと言う。
神話は、彼等が青銅の体を持つ事以外、ステュムパーリデスの鳥がどのような種類の鳥であったかを詳らかに語っては居ない(異説によると、ヘーラクレースの弓から逃れたステュムパーリデスの鳥はアラビアに逃げたとも言われており、その姿は鶴程の大きさでトキに似ていて、然し嘴はトキのように大きく湾曲しない…とも伝えられている。ただ、この鳥はアラビアの伝承に登場する名も無き幽世の鳥に後の識者がステュムパーリデスの鳥の名を与えたとも言われており、どちらが正解なのかはっきりしていない)。
空想上の鳥の正体を、実在の鳥に置き換えるのは愚かしい話かも知れないが、過日、もしかしたら…と言う出来事に遭遇したので書いてみる。
我が家の近くに鳥類保護区がある。
その鳥類保護区の内海沿いの一角は、塀を隔てて直ぐ側にバイパスと歩道があると言う環境(更にJR京葉線の線路と埋立地を経て海に至る)で、その気になれば塀の内側にあるアオサギやカワウのコロニーを歩道に居ながらにして間近に観察する事が可能である。
ただ、この【コロニー観察】をするにはかなりの胆力が必要だろう。特にカワウのそれが顕著なのだが、コロニー周辺は鳥の排泄物が何年にも渡り堆積し、夏場になると凄まじい臭気を発するからである。
保護区の外側の歩道はそこそこ広く歩きやすいのだが、余程急ぎの用でも無ければ通る人は殆ど居ない。
過日、必要があってこの保護区外周の歩道を歩いたのだが、想像以上に臭気が凄まじかった。魚の腐った時のような途轍も無い悪臭である。
それは然し、カワウやアオサギの排泄物のみが原因では無かった。
歩道脇にはアオサギやカワウが飲み込んだものの何かアクシデントがあって吐き出された半消化状態の魚のミイラ、白骨化したカワウやアオサギの若鳥の屍骸、そしてカラスによって中身を食べられたカワウの卵の残骸等が累々と転がり、これまた強烈な悪臭を放っていた。
それらが綯い交ぜになり、マスク越しにもそれと判る噎せ返るような臭気となって歩道全体を包みこんでいたのである。
カワウの排泄物は、有効活用すれば肥料の材料としてうってつけなのだが(海鳥の糞にはリン酸が含まれる為)一方で営巣された木に堆く排泄物が付着すると木の成長を著しく妨げ、最終的にその木を枯らしてしまう負の側面もある。実際、塀より内側の木は大半が枯れ木となっていた。
枯れ木とカワウの巣と、陽の光を受け翼が青銅色に輝くカワウの群れ。ワタクシはそれを見て、
(嗚呼、もしかしたらステュムパーリデスの鳥って、鵜の仲間だったんじゃなかろうかなぁ)
等と思ったのだった。
青銅の羽毛を持ち、有害な排泄物で人畜を苦しめたと言うステュムパーリデスの鳥の特徴は、そのままカワウのそれを彷彿とさせる。また、カワウは群れで海に出て釣り人の獲物を掠めたり、漁場の魚を貪欲に捕食する事があるので、それを婉曲的に【畑を荒らした】と表現したのかも知れない。ヒトがあやめられたと言うのは後世になり付与された【オマケ】的な要素である可能性がある(嘗てオオカミやワシが度々ヒト喰いの悪獣・悪鳥とされたように)。
高度経済成長期黎明、日本ではカワウの個体数が激減し、各地で保護が行われていた。ところがカワウはあべこべに個体数が増加に転じ、先にも述べたように糞害や漁業の妨げとなってしまって居る。同じような事が古代ギリシアでも起きて、その忌まわしい記憶がステュムパーリデスの鳥と言う幽世の鳥の伝承として結実した可能性はゼロでは無いのではないか。
因みに鵜の仲間には、メガネウ(ベーリングシマウ)のように狩猟の犠牲になって滅んだ種や、気候変動により生存競争に敗れて地上から姿を消した化石種が存在する。
ステュムパーリデスの鳥も、嘗てギリシアの地に豊富に産しながら、ヒトとの軋轢の末に絶滅した未知の鵜の仲間の逸話が歪つに残された断片なのかも知れない…と論ずるのは、些か乱暴だろうか。