その日は、彼の人生で忘れることの出来ない一夜となった。
 
 農夫のラルス・フェンツ・シュタイナーは、夕焼けに照らされた畑を去りいつもの様に自宅に帰っていた。 
 春も終わりに近づき暖かな風に吹かれる中ラルスは、これから忙しくなる。と、若干の憂鬱な感情を覚えつつも、ラルスはそれをやり遂げて見せるという絶対的な強い意志を持ち合わせていた。

 ラルスには娘がいた。齢にして九つの少女レーナは、彼にっと亡き妻の忘れ形見であり、唯一にして最大の宝だ。だからこそ、ラルスは冒険者としての旅を辞め人里離れた静かな村に家を買った。
 血なまぐさい争いとは無縁の地に、静かに地に足をつけて暮らすために。

 しかし静か故に、人里が離れた村故に、事は起こってしまった。
 村に響く甲高い笛の音。その直後に、村の中央の張り台から聞こえるけたたましい鐘に、ラルス全力で自宅に走る。

「賊
だ! 族が来たぞー!」

 誰かが叫ぶ声が聞こえた。
 しかし、彼の耳には届かない。

「レーナ……」
 願うように口から漏れ出た僅かな言葉。村から離れた畑を担当していたラルスは持てる力の限り、全力で走った。
村の門をくぐり自宅へ着いた時、ラルスは無傷の家を目の当たりにして安堵しつつ中へと入る。

「レーナ、どこだ?」

 大き目の声での呼びかけに応じる者は居なかった。
「またか……」
 遊びたい盛りのレーナは時々、家のどこかへ隠れてしまい姿を現さなくなる。そして、探し回る親の姿を観察しているのだ。
 まったく親騒がせの悪戯娘である。と、思いつつもそれでレーナの気が済むのであればとラルスは毎度、泣く泣く付き合っている。

「早く出てこないと飯なしにするぞぉー? いいのかぁ?」
 
 その問いに返ってきたのは、扉越しに振りかざされた戦斧だった。木製の古い扉をいとも簡単に粉砕し振りかざされたそれを、間一髪のタイミングでラルスは回避する。

「今だッ!」

 賊が叫ぶと同時に馬の鳴き声とガタガタと、馬車が進む音が響いた。

「クソッ」

 即座に外へ向かおうとするラルスに、賊が立ちはだかる。
 ラルスは苦悶に満ちた表情を浮かべ賊と対峙すると、ソイツは嫌らく嗤った。

 どうしようもない状況にラルスは、追跡を断念する他になく家の奥へ逃げる。そして、久しく持つこともなかったソレを掴む。
 埃がの被った柄を強く握りしめ、ドタドタと足音を立てて追ってくる賊を切り捨てた。
 
 元冒険者であるラルスは、幾度となく危機的状況に陥り、その都度乗り越えてきたのだ。この剣と仲間と共に。
 振り上げられた剣の切っ先がうっすらと赤く輝く。
 
 ラルスは願う。どうかレーナが無事であることを。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?