ぶらんこ

ぶらんこが揺れている。公園にあるぶらんこではない。サーカスのぶらんこである。詩人が天高くに吊られたその姿を、その揺曳を歌ったぶらんこである。ぶらんこが、今そこで、ゆらりゆらりと、乗り手が飛び降りた余韻をたたえて揺れている。ぶらんこの影は、色彩豊かなテントの天井を撫でると、次の瞬間には恐ろしいほどの急転直下で地面に叩きつけられる。再びぶらんこに乗らんとする踊り子が、その傍らで、昇り詰めた梯子の上で、地上の音楽に合わせて身をくねらせる。その影はテントの表面に、首と胴体と手足とがばらばらに映し出される。胴体が大きくうねり、その横で頭がぐるりと回り、身体から途切れた手足が激しく揺れて形を歪める。音楽は次第に急速に、音高くなり、踊り子の舞もまた激しくなる。
何の儀式か、サーカスである。大衆の娯楽のうち、最も非現実的で、最もきらびやかで、最も肉薄した畏怖の念を抱かせる娯楽である。サーカス小屋の裏で草を食んでいた、背中の曲がった悲しげな馬が、サーカスの舞台では背中の窪みに踊り子を乗せて素晴らしい芸当をやってのける、そういう小説を読んだ記憶のある者は多い。サーカスは、夢だ。いつまでも輝く幻想だ。

しかし今、私の目の前で揺れているぶらんこは、真っ暗な公園の真ん中でひとり揺れているぶらんこは、一体どんな夢の欠片だろう?家を出たのが何時だったか、よく憶えていない。ふいと私はこの公園の入り口に立って、深夜に揺れるぶらんこを見つめている。喉の奥にコーヒーの苦味がわだかまっている。強気でいようと飲んだブラック・コーヒーは確かに恐怖を曖昧にしたが、得体の知れないものに対する警戒心も同時に薄れさせた。私はざくざくと砂地を踏んで、その揺れるぶらんこに近づいていった。
誰もいないと思っていたぶらんこの上には、しかし、1人の少女が座っていた。華奢な手足と藍色のワンピースは、闇に溶け込んで消えてしまうには願ってもない出で立ちだろう。実際私は公園に足を踏み入れるまで、その存在に気づかなかったのだ。少女はぶらんこにしょんぼりと腰かけ、近づいてくる私にも気づかない様子で、キィー……キィー……とぶらんこを揺らしている。声をかけるのも憚られて、私はぶらんこの横にぽっつり立ち止まった。少女の頬は青白く、生気が無かった。鎖に添えられた指はただ添えてあるだけで、足元は弱々しく土を蹴っていた。ぶらんこはその弱い力に押されて前へ後ろへと揺れ、儚い少女の四肢をさらに捉えがたくしていた。
折しも家々の後ろから月がのっと顔を出した。血の滴るような赤い月で、私はいつかサーカスで見た踊り子の衣装を思い出した。あの踊り子の胸元に飾られた薔薇は、今夜の月ほどに艶やかな深紅だった。サーカスの音楽と、熱と、揺曳が脳裏をよぎった。踊り子の不気味に舞う影が同時に連想されて、私は月から目をそらした。
ぶらんこの少女に目を移すと、彼女の頬はホンノリと桃色に染まり、小さな唇には陶酔の吐息があった。ぶらんこの揺れは止んでいた。それは月のためだった。長い睫の先に紅月があった。少女は長いこと飽かず月を見つめていた。それを私は見ていた。傍目にはずいぶん怪しい2人だったに違いない。しかし少女の横顔には抗いがたい魅力があった。
不意に、少女はぶらんこの鎖を握り直して、地面を強く蹴った。ぶらんこは軋みながら少女の身体を空高く放った。そして急速に降下して地面に接近すると、少女が再び地面を蹴った。ぶらんこは後方にしなって、その反動でより前へ、より高くへ浮き上がった。少女とぶらんことの間で何度かそんな応酬があった。地面を蹴って真っ直ぐに伸びるしなやかな足、鎖に絡みついた繊細な指、風に靡くうなじのおくれ毛、一時も月から離れない瞳。それはこの世のものではなかった。月に恋し月に恋された少女は次第に強くなる月光のもとでなおも高くへ飛び立とうとしていた。

ぶらんこに押し上げられた少女の身体が周りの木々よりも高い場所に達した。その瞬間、少女はぶらんこから離れ、軽やかな身のこなしで月の方へ飛んでいった。少女の腕は月に向けて投げ出され、両足は空をすり抜けた。月の光が一際輝いて、少女の姿は見えなくなった。
私は急に自身を持て余した。放り出されたぶらんこが目の前で揺れていた。私はサーカスを見たのだ。どんなサーカスよりも美しく、壮大で、そして背筋の寒くなるような舞台に、私は肉薄していた。同時に私は、この舞台には立てないと分かった。幻想に生きるには、私はあまりにも地面に接しすぎていた。私は家に帰ろうと思った。家に帰らない勇気を得るためにブラック・コーヒーを飲んだはずだったが、コーヒーの苦味はすでに腹の底から失せていた。あの少女の恍惚とした瞳が視界にちらついた。ぶらんこは私を拒んで、まだ揺れていた。

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