両親に愛情を注いでもらったはずなのに、なぜ自己肯定感が低いのか考えてみた
ここ数年、自分を見つめ直す作業を断続的に行なっている。
まずは「自己肯定感」という言葉を知った時に、「私は自分のことを結構好きだから、多分、自己肯定感は高い方だ」と誤解した。
誤解に気づいたのは、自己肯定感をしっかりと理解し始めてからだった。自己肯定感というのは、「いい時の自分、頑張っている自分」だけではなく「ダメな自分、頑張れない自分」というのもひっくるめて認めることなのだと知ったのだ。
私は、頑張っている自分しか好きじゃなかった。
頑張れていない自分は、価値がないと思っていた。
だから頑張り続けなければ、いつもいい人でいなければ、誰からも必要とされないし、許されない。はっきりそう言語化はしないまでも、そういう風に思っていたのだと思う。
高いと思っていた自己肯定感が実は低かったのだと知った時、私はとてもがっかりした。
母に、父に、愛されて育ったはずなのに、どうして自己肯定感が育たなかったのか?
両親まで否定されたような気がして、本当に悲しい気持ちになった。
また、時を同じくして、HSCという概念を知った。
いや、もしかすると、HSCを知ってから自己肯定感という言葉を知ったのかもしれない。
HSCというのはHighly Sensitive Childのことで、日本語では「ひといちばい敏感な子」と訳されている。生まれつきよく気がつき深く考えてから行動する子のことで、5人に1人いると言われているが、病気や障がいではなく気質なのだ。
息子がHSCだと認識したのは、今から5年ほど前のことで、息子が他の子よりも母である私と離れることを嫌がったり、よく泣いたりしていたので、なぜなのだろうとインターネットで検索したことからこの概念に出合えた。
HSCという概念との出合いによって、私の子育ては随分楽になった。
息子だけが変わっているのではない。そして、私の育て方が間違っていたわけでもない、そう思えたことが本当に救いになった。
厄介だと思ってばかりいた息子の敏感さも、決してマイナスのことだけではなく、悲しいことをより悲しく感じてしまうのと同時に、楽しいこと嬉しいこともひといちばい感じているのだと知り、それはとても素晴らしいことだと感じることができた。
息子のことをHSCと認識し、旦那のことをHSCの大人版、HSP(Highly Sensitive Person)だと認識したところまでは、スムーズに行ったのだが、自分自身がHSPであると認識するまでにとても時間を要した。
それは、限りなくHSPに近いのではないかとまでは自分のことを思えたのだけれど、それほどに敏感であるとは不思議と自覚できなかったのだ。
HSCを知って程なくして、私は、HSC、そして自己肯定感の大切さを広める活動をされている明橋大二先生に直接お会いしたいと思った。
お会いして、直接、感謝の気持ちを伝えたい、そんな衝動に駆られた。
そんな中、明橋大二先生が「自己肯定感を育むスペシャリスト」として認定してくださる講座があると知った。
受講し「認定子育てハッピーアドバイザー」になったのは、今から3年も前のことだ。
アドバイザーになりたいというよりも、明橋先生とお話ししたい気持ちが強かったこともあって、アドバイザーとしてセミナーを開いていいのだと言われても、なかなか重い腰が上がらぬまま随分年月が経ってしまった。
けれども、縁があって、アドバイザーの仲間と一緒に今年の3月と11月にセミナーを開くことができた。
私は、ファシリテーターやセミナーの一部を話す役割をいただいただけだったけれど、それでも、目の前の保護者の方が、子育てが大変な中、話を聞いたり参加者同士で語り合うことでホッとして帰られる姿を見て、「自己肯定感の大切さ」と「HSC」についてもっと広めたいという気持ちになってきた。
そして、今年、それと並行し、あるセラピストの方に伴走していただき、ヒプノセラピーやモーニングノートなどを通して、自己探求に取り組んできた。
その中で、自分は、子どもの頃、とても我慢して「良い子」になろうとしてきたのだ、ということに気がつくことができた。
今まで、我慢してきたという自覚もあまりなかったし、なぜ「良い子」になろうとしてたのかもよくわからなかった。
しかし、自己探求を進めているうちに、だんだんとその時の状況というか、感情が蘇ってきた。
おそらく、手のかかるタイプの兄に母がかかりっきりになることに対抗して、私自身は「良い子」になることで、母の注意を引きつけたかったのではないか、ということがわかった。両親は怒鳴ったり叩いたりする人たちではなく、充分に愛情をかけて育ててもらったのだけれど、親の私に対する「こうあってほしい」という要望がよくわかってしまったので、それに近づこうと思い、「良い子」であり続けたのかもしれないのだ。そして、いつしか、そうでないと自分ではないというような思いに取り憑かれ、小学校、中学校も優等生であり続けた私は、「しっかりしていないといけないのだ」というプレッシャーに押しつぶされてそうになっていたことを思い出した。
そして、それが、HSCに良くあることなのだということも知った。
良い子であり続けようと思う気持ち。
良い子でいないと嫌われてしまう、愛されない、そんな恐怖が確かにあった。
だけどそれは、親がいけなかったのか? それとも、私がいけなかったのか?
そう考えると、その両方とも認めたくなくて、またしばらくフリーズしてしまった。
けれども、よくよく思い出してみると、良い子でいたい私も時には、うまくいかなかったことがあったと思い出すことができた。
その時、母の言ってくれた言葉、父の言ってくれた言葉を徐々に思い出してみると、ダメな時も決して愛されなかったわけではなかったと思い出せた。
そうだ。
頑張れていない私も愛されていたんだ。
ホッとした。気持ちが少し楽になった。
けれども、今も私は、頑張れていない自分をゆるすことが苦手だ。
旦那に、息子に、ダメな自分を見せることはできているし、前よりは、「まーいいか」と思えるようにはなってきているけれど、それでも、「まだだ、こんなものじゃない。このままじゃダメだ、私」と思いがちだ。
やはり、私はHSPなのかもしれない。
だから、親が愛情を注いでくれたにも関わらず、自己肯定感を持ちにくいのかもしれないのだ、とようやく合点がいった。
さあ、では、どうしようか。
やはり、セオリー通り、自分を褒めることをしていった方がいいのかもしれない。
過大評価とかそういったことではなく、自分のことを客観的にみて、「もし、こんな人が周りにいたらどう思うかな? なんて声をかけるかな?」と思って見てみると、今よりも、もう少し優しく労うことができる気もする。
100点は取れていないけれど、結構頑張っている部分もあると思う。
できていないことではなく、まずは、できていること、あることを認めよう。その上でスモールステップで自分を励ましながら進んでいけばいいじゃないか。
そんなことを思った。
だけどなんだかんだと、やはり、私は私のことが好きだ。いろいろと考えなくてもいいことを考えすぎて少々自分自身持て余しているけれど、だけど、やっぱり好きだ。
自己肯定感は低めかもしれないけれど、なんだかんだと自分のことを好きでいられるのは幸せだと思うし、愛情を注いでくれた両親にも感謝している。
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