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是非は自分の中に・残された本の自炊

半分壊れかけのプリンターのスキャン機能で本を自炊してみた。
どんな感じに仕上がるのか。レシピ本が主なれどPDFで。画質低中高とあるうち中で保存すると元からの電子書籍に比べると画面に結構なざらつきを感じる。比較に高画質で保存してみたたら100ページで540Mbとか はっ?中程度画質の10倍。でも綺麗。綺麗だけどやはり中程度の解像度を選ばざるを得ない。一冊目はお試しで。二冊目は半分水濡れでくっついているものの撮っておきたい部分のみ。
あとは業者に頼みたい。自分でするには手間だし心の負担も軽くなる。

電子化しようと思う三冊目以降の候補を積み重ねてゆく。
自分の思い出の本はまだ良い。でも姉のところから持ってきた本の数々を手にとっては戻したり心が決まらない。
形見というほどのものではないけど姉がこの本を操っていた時間が存在するもの。これを断捨離電子化してしまっていいのだろうか。
姉の本の電子書籍化とは 
姉の思い出が具体的な形を失い
思い出が色褪せるより早く私が触れられる情報が限界まで少なくするということだ。
自分が外付けでアクセスできる思い出という画像に強制的に古い映画のように雨を降らせるということだ。
これを行なって良いものか。この世に存在する私とも繋がったデータをこんなにも縮小して良いのか。

この決断に是非はない。誰も私を責めないし、誰も私がどの本を持っているのかも知らない。私が知っている姉の言動と結びついている本から私がその思い出にアクセスできることなどこの世の誰も知らない。

是か非かは 私の心の中にある。

人間のストレス、辛い気持ちの筆頭にも上がることは自分の決断で自分が後悔することだと常々思っている。
だから自分の決断に論拠を求める。正しいのだと思いたい。

でも自分の決断で後悔がやってくることもある。辛い事態になることもある。
その時、責められるべきは自分。どこにも逃げられない。辛いのにその責めまで負う。

横のようだがこういう自己免疫疾患のような状態の心の状態になったら人は生きてゆけない。
自分を苦しめる原因は自分で作ったと自分を責める。これほど苦しいことがあるだろか。
こういう時きっと人は神仏を求めるのだろう。
自分の決断の結果の苦しみがやってきたらそれは自分などの存在を超えた神の存在の意思によるという圧倒的他力本願 すがるという形になったりするのだと思っている。是非を議論しているのではなく、神仏に依るというのはそういうプロセスがあるのだろうと。

さて、思い出の濃い本、形見本の断捨離。すなわち心の断捨離にも
思える。
 
特に帰依している宗教もなし。
私は私に これは是である。と申し渡さねばならない。
後悔はしない。後悔の芽が手かけたらさっさと抜く。
私の器には容量の限界がある。そして、悲しみや後悔を再び手にとって自分を痛めつけるわけにはいかかないのだ。生きてゆくために。自らと 断ち捨て離す。

いや違うぞ自分。断捨離はしていない。きちんと思い出として大切に残そうとしている。アクセスできる。データは縮小したけれど。事実だろ。

思い出も風化するし私が死ねばもう、誰も私と姉との記憶は共有していない。そうだ雨の中の涙のように滲む間もなくなくなるものだ。
常に常に姉のことを思っている。
よし。続けよう。

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