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2度目の死

二年前 外国に住む姉が突然亡くなり様々なものが残された。一から十まで。
全てを片付けねばならぬ。
突然のことなので心の用意ができておらず 随分と捨てたけれども多くの写真とiPhone iPad そしてラップトップ その他服や食器などが今私の手元にある。

一人彼女のアパートで 私が見ておくね 私の網膜と脳みそで通してから ごめん捨てるねと 多分麻痺した心でずっと片付け続けた。捨てに捨てた。だが多くも持ってきてしまった。

デバイスには全てアクセスすることができた。iPhone8 と私がお礼としてプレゼントしたiPadAir2はサブ機として使っている。しばらくそのままにしておいたけれどもバックアップをとって初期化。バックアップにアクセスすることはもう二度とないしそのうち容量も一杯になったり手違いで消えていくだろう。

でもWindowsのラップトップは? これを持ってきてしまったことに後悔を感じている。私には何の役にも立たない数々の書類や仕事や彼女が残していったブックマーク。仕事のやり取り。そして手紙。
これを初期化することは、姉の存在を抹殺することになるような気がする。データを消すのだ。姉の死以来彼女に関する沢山のものを消去してきたのにこのラップトップを消去するのがどうしてこれほど恐ろしいのだろう。そして消去しないラップトップが存在することがこんなにも苦しい。重い。そこから逃れるために自分がそのスイッチ押す。

実際には姉の記憶は様々に関わってきた人々の中もあるのであり人としての存在は記憶とともにあり、薄れていったり人々が亡くなることによって完全に消えてゆく。で良いのであろう。

二年が経ったがラップトップを 初期化することができないでいる。ただのデータ。
人工呼吸器、人工心肺などのスイッチを切る決断などこの気持ちに比べたらどんなに重いものであろう。

苦しかった姉が見える。私は見ない方が知らなかった方が良いもの、抱えない方がいいものがあるけれど、それが声が再生されるかのように甦る。

どうしたらいい。私は苦しい。

途中まで書いては閉じたり消したり。
今、再びこの文を開いた時に彼女の葬儀の時に自分が言った言葉を思い出した。
今は自由に楽に苦しみから逃れた場所にいるはずと。姉との愛すべき記憶だけ持っているだけを持ち、何かのきっかけで人と話すことがあれば聞く。それだけで良い。姉と共有していたもの、それを1人で抱えて生きていかなてはならないのは辛い。この世に誰1人として姉以上に私と「それ」を共有していた人間は存在しないのだ。だが、そのことを見つめて自分に突きつけてどうする。

だから消そう。ともう一度思う。
どうして心臓がこんなに痛く、重いのか。多分人はそんな時のため生き続けるためにお焚き上げというものに預けてしまうのだろう。その何かを他者に移しすプロセスをかませてから白くする。

自分の心を見つめれば
自分はつい黒いものネガティブなものをいつまでも手に持っていじってしまう。
手に取らず、いじらず手放すことが 長い間目標になっている。
自分を殺し続けることに一体なんの意味がある。誰のためにそんなことをする。
記憶のリコールは苦しむだけ。

前からくる課題に力を向けなければ。

形はいらない。ただリターンキーを押すだけだろう。
ただ、自身のこの気持ちと持てる姉の記憶を持って浄化される場所に行きたいと思う。姉が自由で幸せな場所にいると感じられる光の溢れる場所に行きたい。
それがどこかわからない。海なのか山なのか滝のある場所かもしれない。

いつか行く。



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