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正義を武器にはしたくない

正義、というものの恐ろしさに気がついたのは、ここ数年のできごとだったように思う。
わたしにも「これが正義だ」と信じているもの――それから、「これは悪だ」と忌み嫌っているもの――はいくつかあるけれども、はたして本当にそれは正義なのだろうか、とひとたび考え始めると、何が正義なのか、そもそも絶対的な正義なんて存在するのか、なんて出口のない思考に囚われるようになってしまった。

というのも、生まれた時代や国、家庭環境や交友関係、読んだ本や観た映画、愛し愛され、傷つき傷つけられた経験・・・・・・
それらが日々積み重なってできあがったわたしたち1人1人の「価値観」というもの、それを全部取っ払って世の中を見つめることは、はたして可能なのだろうか。
少なくとも、わたしにはできない。

だから不安になるのだ、わたしの信じる正義は本当に正義と呼べるのか。
そして恐ろしくなるのだ、自分の信じる正義は間違っていないと信じ込んで、それに反する他者を罵倒し嘲笑う人たちの姿が。

正義とはあくまでも信じるものであって、振りかざすものではない
いつからかわたしは、そんな逃げの言葉で自分にブレーキをかけるようになった。

とはいえそうやって逃げることを続けていれば、いずれわたしの信じる正義は、それを悪とみなす人々によって踏みにじられるだろうことも容易に想像がつく――大きい声をあげられる人が正義、まだまだそんな空気の漂うこの世の中では。

何が正義かなんて誰も知り得ない世の中で、わたし達は何を指針に他者との調和を築くべきなんだろう。
それを探っていくことが、どんどん多様化の進む社会に生きるわたし達に与えられた課題なのかもしれない。

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