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短編小説『眠れない夜は、気楽亭へ』その3

強い潮の香りがする。
身体がゆらゆら揺れている。

目を開けると、群青色の空が広がっていた。
「お、ようやく起きたな」
その声の方に顔を向けると、彼がニッと笑っていた。
「ここは……?」
ゆっくりと起き上がる。ゆらゆらと、今度は床が揺れる。
海の真ん中に浮かんだ小船の上に、私たちはいた。

空が少しずつ明るさを取り戻していく、暁の頃。
ちゃぷん、と小魚が跳ねて、再び海の中へと消えていく。
静かだ。どこか神聖な静寂が、辺りを包んでいる。
「眠れないんだろ?」
彼が、ホットミルクの入ったコップを渡してくれた。どこから出したのだろう。そもそもこんな海の上でも、彼は現れてくれるのか。
「……今日の気楽亭、面白い場所ね」
そう言ってみると、彼はふっと笑った。
「お前の心が一番行きたい場所に、気楽亭は、俺は現れるんだよ」
「そっか」
だから、海の上なんだ。
だから、夜明け前なんだ。
ホットミルクを一口飲んでから、私はぽつりと呟くように話し始めた。
「……何だかわからないけど、何かが始まる気がするの。……何か、とっても大きくて、素敵なことが」
「へぇ」
彼もホットミルクを一口飲んで、「そりゃいいな」と、優しい静けさを纏った声で言った。
「理由がわかんなくても、そういう勘って当たるもんだからな。つまり今は、前祝いになるってわけだ」
「そんな簡単に信じてくれるの?」
私自身、半信半疑なのに。
彼はこちらを見た。まだ薄暗い中、彼の切れ長の瞳は宝石のように輝いていた。
「そりゃそうさ。俺はいつだって、お前の味方だからな」
胸が苦しくなる。普段の辛さからではなく、嬉しさでいっぱいになったから。
彼は私が一番ほしい言葉をくれる。私の心の奥の住人だから、当たり前ではあるけれど。
こうして言葉にしてもらえるのが、どれだけ幸せなことか。
「ありがとう」
そう伝えると、彼はまた、輝かんばかりの笑顔で応えてくれた。
「今日は呑むか?」
「ううん、これでいい」
ホットミルクを二人で飲みながら、昇ってくる朝日を待つこの時間だけで、充分に前祝いだと思うから。

水平線が白んでくる。
少しずつ、太陽が顔を出す。
「おめでとう」
唐突に、彼が言った。びっくりして隣を見ると、彼は不思議そうにしている。
「いいことあるかもしれないんだろ。なら祝っとかなきゃな」
「あ、そっか……」
純粋に嬉しかった。
この特別な時間を、心の奥の世界で二人で祝えるのが、とても幸せで。
「乾杯しよう」
私が言うと、えっ、と彼は目を瞬かせた。
「ホットミルクでか?ってか、もう中身ないだろ」
「いいの」
黄金色の朝日が、世界を照らしていく。
それだけで完璧なのだから、ちょっとくらい不完全なものがあったっていい筈だ。
私は空のコップをちょっと掲げてみせる。
そうしたら彼も、やれやれと言わんばかりに笑って、コップを掲げてくれた。

「「乾杯」」
こつん、と軽くぶつかるコップの音が、やけに心に優しく響いた。

昇る朝日そのものが、今日の花まるだった。

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