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家族とは誰か?:「そこに愛は要るんか?」

「ひと・こと・もの」に頼りながらチームで子育て&両立をしていこうと提案してるチームわが家。半年ほどかけて行った問い直しの旅を振り返っています。

旅は始まったばかりですが、早速ちょっと寄り道して「家族」について考えてみたいと思います。寄り道ではあるのですが、それを考えることが結局旅の始まりのような気がします。

私が育った家族は、両親と弟の4人家族。転勤族で、中学になるまでは北海道、それ以降は熊本でした。私が幼い時に母が病気になり、物心ついた時から「家族の日々の営みをどう回していくか」を家族全員で考えながらやってきた気がします。特に北海道時代は地域の人たちに助けられて育ち、その時の繋がりは大人になった今も続いています。チームわが家の原体験はきっとここにあります。

母が亡くなって3人家族になってからは、父が単身赴任で弟と私が二人暮らしをしたり、その後私が海外に行ったり、弟が東京に行ったりと3人で暮らした時間は短かったように思います。また、父が数回再婚し、その度に家族が増えたり減ったりした時期もありました。

新しい家族との距離感。一緒に暮らしたことはありませんでしたが、まあ、なかなか難しい問題もありました。そんな背景もあり、時々「家族って何だっけ?」と問いながら過ごしてきた気がします。(今のステップ家族とはいい距離感で良好な関係です。念の為。)

その後、私自身も結婚、出産、三人の子どもと夫の五人家族となり、「これが家族かな」と感じるようにはなりました。その一方で全く違う環境で育ってきた夫との「家族のあり方への考えの違い」に戸惑い、それは結構最近まで続いていました。

形的には家族のようだけれど、考え方はなんとなくチグハグ。チグハグ度が高まる度に「家族とは何か」という問いを思い出しましたが、そんなふうに問いを立ててしまうのは自分の育ってきた環境のせいなのだろうか。。。そんなことをよく考えましたが、結局よく分からないままでした。

仕事に行き詰まり感を覚え、三男が小学生になる直前に大学院に入学。専攻は家族社会学。これで問いの答えが分かるかも?と期待しました。

ところが、なんと!
長年にわたり時折考えてきた「家族とは何か」という問いは、もはや成立しないということがわかりました。ちーん、です。と同時に、「まあ、そうだよね」という感じでもありました。ある調査をベースにちょっとご説明しましょう。

この調査ではさまざまな関係を「どのくらい家族らしいと思うか」を聞きました。ダントツで高かったのは「一緒に暮らしている親子」「一緒に暮らしている夫婦」でしたが、その次に高かったのが、「愛情をこめて育てているペット」でした。

一方、「愛情がないまま何十年も離婚せずに暮らしている夫婦」を「家族だと思う」と回答した人は「ペット」を「家族だと思う」と回答した人より少ないという結果でした。(大野 2001, 柏木 2010, 山田 2007)

家族社会学の中で「家族」は「血縁や法的な配偶関係を継続して生活を共にする関係や集団」と捉えられてきました。私が育った家族はその条件を満たさない点が沢山あります。「ペット」=「家族」も当然当てはまりません。最近では癒し系のロボットもあって、家族として暮らす人もいます。

犬or猫は家族?
金魚は?メダカか?
両生類は?爬虫類は?
エラ呼吸か肺呼吸か?
恒温動物か変温動物か?
ロボットは?人型や犬型ロボットだったら家族?
E.T.のように地球生命体かが家族の分かれ目?

家族は、血縁や法的関係どころか、もう生別分類レベル!宇宙レベル!なんです。
もう訳がわかりません。ただ、言えることは、血縁や同居の有無、法律上の括りだけで家族を捉えることは不可能、そして、家族の捉え方は人それぞれということです。

そうなると、「家族とは何か」という問い自体がもはや成立せず、問いそのものを
「あなたが家族と感じるのは誰か」にシフトした方が良いということなのです。

では、人はどのような対象に「家族」を感じるのでしょうか。先ほどの調査を眺めてみると「愛情のない配偶者」より「愛情を感じるペット」の方が「家族」だとしています。ということは、「愛情の有無」がキーワード?つまり、

「家族とは誰か」は「そこに愛はあるんか?」という問いによって決まるということなのでしょうか。

その場合、そこに愛がなければ、「一緒に住んでいても、血も繋がっていても、愛がなければその人は家族ではないのか?」という新たな問いが生まれます。

さらには、「愛とは何か」という新たな難問が生まれます。はい。完全にお手上げです。泥沼、いいえ底なし沼です。こんな時こそ社会学。「愛とは何か」という底なし沼にハマらないように、理論的枠組みに縋ってみましょう。

Family Identity
何を家族と同定(identify) するかという「境界の定義」。(上野 1994)
家族と家族以外とを分ける境界線には「物理的境界」と「心理的境界」の二つの境界がある。(柏木 2010)
物理的境界:同居しているなど物理的に近くにいるかどうか。あるいはその関係に「親子」「夫婦」など「近い関係を表す」名前がつくかどうか
心理的境界:主観的にその対象を家族だと感じるかどうか

つまり、人には家族かどうかを線引きする境界線があって、この境界線には物理的なものと心理的なものがあるということです。そして、「物理的」というのは実際の距離だけではなく、「関係の名称が表すの距離」が含まれるというのも興味深い点です。

一方、心理的境界については、「主観的」っていうのがちょっと気になります。要するに、単に「家族と感じるかどうか」ということですが、そこは一旦スルー。「愛とは何か」という問いと同じ匂いがします。底なし沼にハマらないためにももう少し、この二つの境界線にしがみつきましょう。

この二つの境界。どうやら、一致しない場合、人は強いストレスを感じるようなのです。例えば、同居している夫婦が近くにいる、つまり「物理的境界的には家族」であったとしても、家事育児の大変さを共有できず負担を一人で負っている方が他方に「心理的に家族とは感じない(感じたくない)」というような場合です。二つの境界の乖離が大きいほどストレスを感じます。

一方、以前は仕事が忙しく家にいる時間が短く家事育児の負担を一緒に担いたくても担えなかった夫婦が、夫婦共に在宅勤務が可能になったことを機に負担を共有することができるようになった。物理的境界と心理的境界の乖離がなくなりストレスが軽減されたという場合もあるでしょう。

こうして考えると心理的境界線:「主観的にその対象を家族だと感じるかどうか」は、日々家族としてお互いの負担や喜びを分かち合う中で、チリツモ式に培われた絆や信頼があるかどうかということに尽きるのかもしれません。その信頼が、その人を「家族の一員」たらしめるのでしょう。

そして、チリツモ式の信頼を「愛」と呼び、それが判断基準になるのなら、やはり「そこに愛はあるんか?」という問いが自分にとっての家族を決めるのかもしれません。

でも、それはそれで、結構なプレッシャーで、結局は「家族のあるべき姿」という幻想に縛られてしまう危険性も孕んでいるように思います。そもそも「そこに愛はあるのかどうか、信頼があるのかどうか」を問うた時点で家族という重圧に押しつぶされそうです。「そこに愛は要るんか」と問いたくなります。

社会の変化の中で「家族」というもの自体も変容し続けている。今後、家族はどんどん捉えるのが難しく、「自分にとって家族は誰なのか」もさらに流動的に、さらに曖昧になっていく気がします。

この記事を最後まで読んでいただいた方は、これから例のCMが流れる度に「家族とは誰か」という問いを思い出してしまうかも。すみません。

参考:
上野千鶴子(1994)近代家族の成立と終焉
大野祥子(2001)家族概念の多様性:「家族」であることの条件
柏木惠子編著(2010)よくわかる家族心理学
山田昌弘(2007)家族ペット