「続ける」という才能

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「継続できるということはある種の才能である」…誰の言葉だったか覚えてはいないが、まさにその通りである。

「継続は力なり」「ローマは一日にしてならず」…あらゆることは続けてこそ高いレベルにたどり着ける。また、長らく続けている人の言葉というのは説得力があり、重みを増すというもの…しかし、継続するというのは何とも難しいことである。

私は長らく続けること=習慣というものは、「目的」が明確である、または「見返り」が保証されているという理由で身に付くもの、もしくはやらないと何か罰が与えられるという「恐怖感」で続けざるをえないもので身に付くとずーっと思ってきた。

前回投稿した朝の坐禅、もう20日以上も続いている。

この坐禅、誰かに強要されているものでもないし、止めたら罰が与えられるわけでもない。

何か明確な目的があるわけでもなく、はっきりとした効果が約束されているものでもない。

「ナゼなんだろう…」という思いが湧いてきたものの、不思議と理由を無理矢理探そうという思いにもならないのが、ある意味坐禅の効能なのかもしれない。

日本曹洞宗の開祖・道元禅師の言行を纏めた『正法眼蔵随聞記』という書物に次のような行がある。

一日、弉、問云、叢林の勤学の行履と云は、如何。示云、只管打座也。

(ある日、懐弉が道元禅師に「禅寺でひたすら仏道修行に励む行いとは、どのようなことでしょうか。」とお訊ねした。道元禅師はこうご教示なされた。「ただひたすら坐禅をすることである。」)

所求を断じ、仏果をのぞむべからず。

(何かを求めようとする心を断ち、悟りを得ようとなどと望んではならない。)

坐禅も、自然に、久くせば、忽然として大事を発明して、坐禅の正門なる事を、知る時も有べし。

(坐禅も長い間自然と座り続けていると、ある日突然悟りの道が開け、坐禅が仏道修行の正しい門であることを知る時がくるのだ。)

近頃は「マインドフルネス」という言葉が流行り、瞑想することに何か神秘的な力が備わっているかのような印象を受ける。

でも私はそんな特別なことではなく、ただ座って体を調え、呼吸を調え、心を調えている…ただそれだけのことに過ぎないと考えている。

あとは各々がどのように感じとるか?それだけのことである…と思うのです。

習慣というものは、始める時には何らかの動機付けが必要なのかもしれないが、それを行うことの「理由付け」「言い訳」「大義名分」を捨てたところ、忘れたところから本当の「習慣」が始まるのではないか…「よく分からないけど何となく」…この思いが出てくるまではとにかくひたすら「只管○○」。

それが続かないようであるなら、今の自分には必要のない行いなのかもしれません。

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