見出し画像

Vol.3 CORONAの軟式野球生活

どうも、CORONAです。

今日は、昨日の予告通り、自分が野球部にいた頃の思い出をダラダラ書いていきます。興味ある人だけ見てもらえればって感じです。

過去記事はこちら▽


では早速スタート!!

中学時代

画像1

受験して入った中学校で初めて部活という形で野球を始めた。
制球はめちゃくちゃだったが肩が強かったので外野ピッチャーをやらせてもらった。
中学はとんでもない弱小校で、練習試合ですら1試合しか勝てなかったようなチームだったが、甲子園にエースピッチャーとして出た経験のある顧問の下でのびのびやりたいように野球をさせてもらった。
3年生になる頃にはスイッチヒッターに憧れて、以降2年くらい欠かさず左右でバットを振り込んだ(後に完全に左打者に転向した)。

高校軟式野球部の門を叩く

高校野球生活はとても充実していた。あのチームにいたことが自分の誇りだからもう名前を出してしまおう。早大学院軟式野球部で3年間軟式野球に打ち込んだ。中学から内部進学した。
中3の秋、高校の軟式野球部の練習に参加させてもらった時、2つ上の先輩達の身体がとても大きく見えた。当時のCORONAは身長は184cmと高かったが、体重は70kg前後しかなかった。
そこで、初めて高校の練習に行った日から、食べる量を増やした。

画像2

とりわけ沢山食べた時は、朝ご飯を家で食べて、学校に着いたらおにぎりをひとつ、2限が終わったら母親が作った弁当を半分、残り半分と焼きうどん1パックを4限が終わった後、6限が終わって練習前にメロンパンひとつ、練習後に近くのコンビニでカップ麺を仲間と買い食い、母親が用意して夕飯を食べる。という具合だった。
今考えると、もっと脂質減らせばよかったかな等の細かい部分で反省点はあるが、筋肉も脂肪もガッツリ増えて、高1の夏には90kgに乗った。120km/h前後だった球速は、短期間で128km/hまでアップした。
一方で、制球が依然としてめちゃくちゃで、1イニング2四死球は必ず出す状態だったため、とにかく投げ込みでフォームを改善しようとした。ほぼ毎日ブルペンでフォームを変えながら、正解を探り60球近くは投げ、多い日だと100球を越した。制球を改善しなければという気持ちもあったが、ブルペンが好きだった。

肩の怪我

日々の投げ込みが祟ったのか、12月の年内最後の練習で外野ノックを受けた際に右肩に違和感を感じた。とりあえず冬休みは誰ともキャッチボールをしないでおけば治るだろうと考えていた。だが、年が明けても肩の痛みは引かないどころか、授業中も痛むようになった。近くの整形外科でも原因が見つからず、都内の大きな病院で診てもらいようやくわかった原因は、上腕骨の先端に水が溜まっているというものだった。手術等でどうにかなるものではなく、地道にリハビリをして、痛みに耐えられる体を作らなければならないと宣告された。

画像3

3ヶ月ノースローの後、2ヶ月スナップスローのみ。その裏では毎日地味な肩のインナーマッスルのトレーニング。それも怪我をした状態からだったため、進みはゆっくりだった。

その春は野球がめちゃくちゃつまらなかった。やめようかなと悩みながら続けていたら夏が来た。続けられた理由は監督の存在が大きかった。OBで、大学生だったS監督。あまり笑わないからか、冷たいと誤解されがちだったが、ケガをしたCORONAのことをよく気にかけてくださった。
また、1個上の先輩のOさんの存在も大きかった。Oさんもクールで、1人でいることが多く、どこかダルそうな立ち振る舞いから時には「不真面目なやつだ」と誤解されることもあった。後輩から人気があったわけでもない。CORONAはなぜかそんなOさんにえらく懐いていた。Oさんと1日でも長く野球がしたいという気持ちがどこかにあった。
先輩達は都ベスト4で敗れた。試合後、改修前の駒沢球場のスタンド裏で引退式が行われた。Oさんともう一緒に野球できないのか。寂しいけど、Oさんはクールな人だし泣かないんだろうなぁと思っていた。
ところが、Oさんは3年生の中で誰よりも引退式で涙を流し嗚咽を漏らした。そんなOさんを見て、CORONAも大泣きした。そして、その日以降、野球をやめようとは1度も思わなかった。「ケガ人だからプレーでチームに貢献できるかはわからないけど、チームの勝利のために少しでも力を尽くそう」と思った。

画像4

自分たちの代が来た。

自分達の代になってからは、ピッチャー用の基礎メニューをこなしながらセンターの練習に参加した。ピッチャーとしての球威は依然として戻らなかったため、そうでもしないと試合には出られないと思ったからだ。おかげで(間違いなく監督のお情けもあったとは思うが)、少しずつ外野手として練習試合に出ていた。守備は上手ではなかったし、打撃も快打を連発したわけではない。ただ自信があったのは「フライをあげないこと」「三振が少ないこと」だった。
軟式野球特有の戦術で「叩き」というものがある。ボールを叩きつけてゴロを打つのだ。軟式球は中身が空洞になっているため、打った時にボールが潰れてヒットが生まれにくい。一方でゴロを打つと硬式球よりも上下に弾み、内野手は苦労する。その性質を利用し、一部の強豪校はバントや盗塁と絡めながら「叩き」を有効な戦術として利用する。
この「叩き」に自信があった。CORONAの高校通算成績は .125(24-3)だったが、21回アウトになった中で17回はゴロを打っている。ライナーは2回。フライは1回。三振は1回だった。

無題

一方で公式戦では、前年から引き続いて応援団長を務め、多い時は50人近くいたスタンド組をまとめ上げていた。いわゆる応援歌オタクだったCORONAは、ヤスアキジャンプや西武のランサムを応援歌に取り入れたりなどした。ふざけていたわけではない。東京都の高校軟式は吹奏楽部を動員できないうえに、全国大会にも吹奏楽部を呼ぶ予算はないので、口ラッパで応援せざるを得ない。その条件下で「如何に簡単に盛りあがってもらえるか、尚且つ如何に対戦校に応援だけでプレッシャーを感じてもらえるか」を考えた結果だ。

チームは秋の都大会は優勝、春は都大会で3位ながら関東大会でベスト4になるなどの好成績を収め、ライバル校の日体荏原とともに夏の都大会優勝候補として見られた。

最後の夏

夏の大会直前、背番号が配られてメンバーが確定した後、キャプテン副キャプテンの発案で、ベンチに入れなかった3年生へのそれまでのサポート労いとして、引退試合が執り行われた。その頃のCORONAは外野ノックでセンターからホームまでノーバウンドで返球出来るくらいには回復していたが、ピッチャーとしてマウンドに上がれるボールは投げれなかった。にも関わらず、最終回にマウンドに上げてもらえた。最後のほうはもう肩が痛くてサイドスローで投げていたが、痛みもどうでもいいくらい嬉しかった。

無題1

夏の大会での記憶は準決勝しか鮮明に残っていない。
2016年7月30日、稲城中央公園野球場。この日のことは一生忘れない。相手はライバル校・日体荏原。強力な相手打線をエースが2失点に抑えながら、早大学院の打線も相手エースに封じ込められ、9回表終了時で2-1の1点ビハインドだった。
9回裏でビハインドの展開になると、早大学院の応援団はチャンステーマ「大進撃」を歌う習慣があった。

パーパーパーパーパ パパパパパー
おーきなこえーで はい! Go!Go!Go!

ストラィィィクアウト!

1アウト…。

続く7番バッターは副キャプテン。

パーパーパーパーパ パパパパパー
おーきなこえーで うおおおおおおおおおおお!!

乾いた音が響き、打球が空高く舞い上がった。

伸びろ

伸びろ

伸びろ…!!!

ライトフェンスを超えて、スタンドの芝生に突き刺さった。

同点ソロホームラン。

自分の目から、涙がとめどなく流れるのが分かった。

続く8番、夏祭りを歌った。

きーみーがーいたなーつーはー とおいーゆーめーのなかーーーーあーーー

ライト前ヒット。1死1塁

9番、サヨナラのランナーが出たので、ヤスアキジャンプで相手にプレッシャーをかけた

オオオオオッオ オオオオオオオ オッオオッオオッ

ライトフライ。2死1塁。

トップに帰った1番、

オオオオオッオ オオオオオオオ オッオオッオオッ

パカーン。

打球はライト線の内側を鋭く駆け抜けていった。

1塁ランナーは猛然とダッシュ、

前進守備だった相手のライトも打球を懸命に追いかける。

2塁を蹴って3塁をも陥れようとする。

ボールはライトフェンスにぶつかった。

3塁を回ってホームへ

突っ込んだ。

返球は返ってくるはずもない。

サヨナラ。相手投手はその場で膝から崩れ落ちた。

一生忘れない試合となった。その次の決勝のことはもうよく覚えていない。ただ、1週間ほぼ毎日声を出し続けた喉が限界を迎え、声帯が壊れ、声が出せなくなった。それでもなんでもよかった。早大学院は夏のと大会を制した。全国大会出場。

8月の終わりに、兵庫県明石市の明石トーカロ球場と姫路市の姫路ウインク球場で全国大会が開かれた。

もうどんな勝ち方をしたかも覚えていないが、初戦は四国代表の新田2-1で破って、その次は南東北代表の仙台商業5-0で破った。どんなにうまくいってもこれくらいだろうと、誰もがそう思っていた。

続く準決勝、北関東代表の作新学院。140km/hの速球を投げるエースがいるチームに勝つビジョンなんかこれっぽっちもなかったが、ベンチ入りメンバーが彼ら自身の野球をした。その結果2-1で勝利。誰も予想してなかった展開になった。

もしかして、もしかするのでは、、、。

しかし、そうはいかなかった。決勝戦では近畿代表の天理5-0で敗北。天理高校応援団のワッショイは今でもあまり聞きたくない笑

全国準優勝で、CORONAの高校野球は終わった。

あの3年間が人生で一番楽しかった。あの3年間に勝る何かを手に入れるために今を生きている。


ものすごく長くなってしまった笑

最後まで読んで頂きありがとうございます。今回は、、、うーん、楽しんで頂けたのかなぁ、、、?

この3回で自分の話めちゃくちゃしましたね、次回からは本格的に野球のことで合ったり、自分の趣味絡みのことを書いていければいいかなと思っています。

それでは、また次回お会いしましょう。

ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?