母はピンピンコロリと逝った
2020年7月23日。
母が亡くなりました。あとちょっとで90歳になるところでした。
おしいなあ。
その日、朝、家族と「おはよう」と言って起き、ジュースを飲んで寝たそうです。家族は仕事に出かけ、お昼に戻ってきたときには、亡くなっていたそうです。
自分のベッドの上で寝ているように見えて、仕事から帰ってきた私の甥が声をかけても無反応だったとのことでした。
結論から言うと、良い死に方。
す~っと誰にも邪魔されず、逝っちゃったんだもんなぁ。
彼女は生前から、笑顔で「ピンピンコロリと死にたいよ!」と言ってましたから。
しかも、普段と変わりない日常の中で、眠っている間にあっちの世界に逝ってしまい、苦しむこともなかったのでしょうね。穏やかな顔でしたから。
「ほんと、うらやましいわ」
次の日実家に帰って、私は彼女にそう声を掛けました。
身支度を整えるために、足の爪を切り、鼻毛も切って(笑)
いつも爪を切るときは「いたいよ!」とうるさかったですが、それもなく。
母は、私が小さいころから仕事ばかりしていて、あんなふうにはなりたくないと思いつつ、同じような生き方をしているので、悔しいのですが(笑)まあ、いろいろな意味で、仕事上も母としても見本になることを多く提供してくれた母です。
別なところにも書いていますが、ダスキンを生業としました。
1964年、ダスキンが世の中に出た時に、「これは世の中の女性のためになる商品だ!広めなくては!」と思って、ダスキンをしている会社に出向き、そこに勤めてしまったエピソードが好きです。
昔は給湯システムもなく、お湯なんか出ませんから、冬場の掃除は大変だったわけで、ダスキンを使えば水を使わなくて済むから、画期的な商品だと考えたようです。
その後、自分で会社を経営し始め、自宅に事務所を構えました。
お客さんが来ても、電話が鳴っても、母は外回りの仕事でいないことも多く、私が対応することもありました。
そして、売り上げ日本一になったことがありました。
その時は私も必死で手伝いました。中学生だったので、学校から帰ると化粧箱を折り続け、商品を入れていきました。
でも、そんな経験から、日本一って案外簡単!っていうイメージが、私にはできてしまったわけです。これは、今の仕事にも活かされているマインドです(笑)
そんな仕事をしているにもかかわらず、PTAの役員をしたり、家にいる時のごはんの支度は、家族が多い分すごい量を作っていたし、趣味はたくさん持っていたし、パワフルでしたね。
ちなみに、テレビゲームをさせてくれたのも母です。任天堂ファミコンの前にTVゲームがあったのです。最先端を行ってました。
私は、中学の時に登校拒否をしたことがありましたが、それも何も言わず好きにさせてくれました。1週間後、児童相談所に連れて行かれ、そこで出た診断結果に納得がいかなかった私は、また学校に通い始めたんですけどね(笑)
何をしても、好きなようにさせてくれていたイメージがあります。
本棚に「放任主義の子育て」の本があったので、それをしてくれたのでしょう(笑)
「あんた、どうやって大学決めたの?どうやって手続したの?」と言われたことがあります。私は2番目だったせいか、あまり手をかけられていなかったようです(笑)
(ショートステイ先での最後に撮った写真)
会社の社員さんたちは、大切にしていたと思います。葬儀日はたくさんの元社員さんたちが駆けつけてくださいました。ありがたいです。
争いは嫌い。
人の悪口も嫌い。
会社にはジュースやお菓子がたくさん置いてありましたね。
社員さんたちのために。(私も勝手にもらいました)
静かに人の話を聞いていることが多かったと思います。
ただ、的確にアドバイス等はしていたのでしょう。
おしゃべりの父の話をずっと聞いていることが多かったです。
2011年3月の東日本大震災で大きな揺れを経験した際に、非常に恐怖だったそうで、眼底出血が起き、目があまり見えなくなってしまったことがきっかけで、できていたことができなくなることに悔しさを感じていたと思います。
編み物が大好きだったのに、それができなくなったことには、かなりがっかりしていました。
それでも、電話番ができるので、会社で電話応対をしていました。声を聴けば、どのお客さんかがすぐにわかるというすごい特技を持っていたので、電話番ができていたのですが、認知症も少し見え隠れし、注文を間違うこともあったようで、会社から退きました。
目が見えなくなり活動が狭まり、段々と認知症症状も大きくなっていったのです。
自分のもの以外の家族分の食事を食べてしまったり、冷蔵庫の中にある調味料を飲んでしまいそうになったり、昼間ひとりでいることの危険もあり、お風呂に入らなくなったりと、家族からの介護にも手がかかるようになったのです。
排便をするとオムツの中の便をつかんでしまったり、おむつ自体も外してしまうので、家族は大変だったと思います。
なんとか、介護サービスに気持ちをかたむけさせたいと思ったのですが、何でも一人でできていると勘違いをしていたので、サービスにつなげるのには時間がかかりました。
それより前にベッドを購入するときも、父や兄の言うことを聞かないで「大丈夫」というので、私が半ば強制的に、「ベッド買うことにしたから」と話すことで、ベッドに変更したこともあり、介護サービスの話も私から切り出しました。
「実は、デイサービスっていうのがあるんだよ!」
「なんだい?それ」
そんなことから、介護施設の利用に興味を持った母にケアマネージャーと会わせて、サービス利用につなげていきました。
結局は、週2泊3日のショートステイを使い、家族の負担を減らし、仕事に集中できるようにもしたのです。
私は、月1回ショートステイ先にいる母を訪ねことにしていました。誰が来たかもわからないので「かわいいかわいい由美子が来たよ!」と声をかけると、大笑いしていました。
(この写真は、母のところだけ切り取り、遺影になりました)
昔あったことを思い出させるために、ダスキンの会社のことを聞いたり、戦争前の話を聞いたり、ゲームをしたり、いろいろこころみていましたが、「わすれちゃったな」と言ってみたり、何か言いたくても言葉が出てこなかったりもしていました。でも、その瞬間に何を話そうとしたのかも忘れるくらいに認知症は進んでいたと思われます。
楽しい話をすれば、笑ってくれる母でしたし、忘れていることにイライラすることはなかったことに、なんとなく、ほっとしたのは私です。
実際、母と生活したのは、高校生までですし、認知症の症状が出るまではあまり私も家には帰らないほうで、「親不孝者(笑)」と言われ続けていましたが、学ぶべきものはしっかり学ばせていただきました。
さて私は、彼女の死を悲しんでおりません。
人はこうやって、だれでも、死んでいくからです。
望む逝き方ができて、良かったねと送り出しました。
2018年、藤崎翠子さんの死がありました。
彼女は、延命治療をせず、自分のベッドの上で亡くなりました。
2018年に亡くなった樹木希林さんも、学ぶべき逝き方でした。
(業者の記事ですが、案外まとまってるので)
母や藤崎翠子さんや樹木希林さんの逝き方は、彼女たちのそこまでの生き方があるからであり、自分のぶれない考え方があるからこその逝き方なのだろうと思っています。
自分もいつか、自分の納得した逝き方で終わりたいと思っていますので、着々と準備を進めていきたいと考えています。
ですから、私が今日以降に、いつあっちの世界に逝っても、どんな形で逝ったとしても、寿命なわけですから、いい人生だったね!とにこやかに、お別れしてください。
(葬儀はソーシャルディスタンス。通夜なしで葬儀のみ。それでも80人の方が来てくださったようですし、ずらりと並んだ花の半分がダスキン関連)
誰もが、たった1回だけ死ねるのです。平等に与えられた権利です。
やり直しはできません。
だから、できるだけうまく死にたいものです(笑)
できれば、私もピンピンコロリといきたいなぁ。
父の最期は、脳梗塞による入院をしており、点滴をしたりしていたので、それはかわいそうに思いました。
ですから、私は、延命治療もしたくないです。
母みたいに「ピンピンコロリと死にたいよ」いつも言っていれば、願いはかなうかもしれない。
いや、叶うはずだ!!!(笑)
それにしても、亡くなった時の母の顔は、母の母(私の祖母)にそっくりで、「佐野のばーちゃんそっくりだなー」と思ったのですが、私は母に似ているので、たぶん、棺桶に入った私は「宇都宮のばーちゃんにそっくりだなー」って言われるんだろうなと思っているところです(笑)
(私の祖母と幼少の頃の私の母だと思います。1歳くらいかな?)
昭和5年、東京都世田谷生まれ。
父親の仕事の関係で日本を離れ、現在の韓国で女学校時代を過ごす。
戦争がはじまるということで、日本に帰ってくるときは、弟をおぶって帰ってきたそうで、途中死者も出たほど、帰国には命をかけたようです。
考え方が大陸的だなあと思うのは、こういう経験をしているからでしょう。
昭和30年前半に父と結婚し、栃木県宇都宮市在住。89歳にて死去(老衰)
(なお、私の父は、2018年4月20日に一足先に他界しております)
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