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ひたち海浜公園に伝わる千々乱風伝説

勝田市史料(水戸射爆劇場の歴史・昭和57年発行)に掲載されている千々乱風伝説を紹介します。世界的に有名なひたち海浜公園にはこんな伝説があることをぜひ知ってください。

1 千々乱風伝説

砂丘に秘められた伝説

 射爆撃場の跡地にある広大な砂丘地帯は、永い時代にわたって無住の地域であった。この地域がなぜ無住の地域となったかについて、この地域をかこむ集落の人びとの間に、ひとつの伝説が伝えられている。射爆撃場の前史は、砂丘のなかに埋もれてしまい、伝説というかたちで語りつがれてきた歴史を掘り起す作業からはじまる。
 勝田市域の馬渡、長砂、那珂湊市域の磯崎、阿字ヶ浦、それに東海村の照沼、村松宿、真崎の一帯に「千々乱風」伝説というのが伝わっている。千々乱風はまた地々乱風とも書き、チチランプウ、チヂランプウ、チヂランプンと呼ばれている。
 千々乱風については諸書に伝承的記録がある。諸書の伝える内容は、細部では少しずつ異なっているが、おおすじでは共通している。
 たとえば『探旧考証』では「元和年中年暦不分明ノ部」として次のように伝えている。
「那珂郡馬渡村ハ、往古青塚二亦大塚とて三ヶ村浜辺に民家ありしに、元和の末大風に当り、家並悉く被二吹倒一再興聾出来〔青塚二亦の二邑八馬渡の地に移り、寛永の季年に至りて青塚二亦の名を廃し、更に馬渡村と称したるよし、大塚則今乃前浜村の事なりしといふ」
 浜辺にあった青塚、二亦、大塚の村々に、元和末年大風が吹いた。この大風で民家はことごとく破壊され、復興なりがたいはどの打撃をうけた。そこで、青塚、二亦の住民は馬渡に、大塚の住民は前浜に移って再起をはかった、というのである。
 また、明治19年ごろにできたといわれる『茨城県常陸国那珂郡前浜村誌』では次のように伝えている。
「往古ヨリ本村北部海岸二大塚浜ニ亦浜馬渡浜ノ三村アリタリシカ、元和三年巳八月十九日ヨリ北風七十五日吹続キ、海嘯キ怒溶天ヲ衝キ烈風砂ヲ飛シ家屋ヲ埋没セシヲ以テ、人民居住スル能ハス、三分シテーハ前浜村へ一ハ隣馬渡村ヘ一ハ隣村長砂村へ移住シ、而シテ三村ノ名称ヲ廃シ、其地ヲ前浜馬渡長砂ノ三村へ分合ス」
 いささか文学的な表現であるが、大風が吹いて被害をうけ、移住したという点では同じである。違う点は『探旧考証』にでてくる青塚村がなく、かわって馬渡浜(または村)になっている点である。さらに、千々乱風が元和3年(1617)8月19日より75日間吹いたとしている点、移住先として長砂村を加えている点が異なっている。
 「酒列神社縁起」では次のように伝えている。
「元和3年の大暴風に吹き埋められたる時、沢田町青塚浜の住民は前浜村と馬渡村に転住せらる」
 ここでは「沢田町青塚浜」となっている。沢田というのは、沢田川の海岸線近辺をいうものと思われる。
 このように千々乱風伝説というのは、沢田川の海岸地帯住民が、猛烈な強風で被害を受け、その難をのがれて馬渡、前浜などの村に移住した事実を、後年になって伝説化したものと思われる。

集落の復原

 それでは、この千々乱風伝説を生み出した、歴史的事実をさぐってみよう。
 強風の難をさけて移住した。その移住経路については、さきの三つの史料でやや異なった点がある。
 移住前の地名が必ずしも一定しない。二亦の呼称のみが、どうやらすべてに共通している。沢田町と、町があるのも興味をひくところである。おそらく、沢田川付近の海岸地帯にこうした名称の集落があったが、移住後にしだいにあいまいになっていったものであろう。移住先の馬渡、前浜の両村はすべてに共通している。『前浜村誌』が長砂村を加え、さらに別の記録では横道村を加えている。移住前の集落と移住先の村との関係も、三者でやや異なってくる。
 こうした問題は解明されねばならないことであろうが、今は確定しうるにたる記録が残っていない。ただ次の点だけは指摘しておこう。それは、移住前に青塚村、二亦村などと村を称しているが、これは近世村と違うということである。何々村あるいは何々浜というのは、せいぜい集落を意味するだけであって、それ以上の意味をもたない。だから、これらの集落をつつみ込んだ、より大きな単位が考えられる。このより大きな単位のなかの集落が何々村、何々浜と呼ばれるものであったろう。
 寛永12年(1635)の水戸領全域の村高帳には、これら移住前の村名はいずれもでてこない。「佐竹藩採集文書」の中にもでてこない。ということは、佐竹氏支配から水戸藩支配の時期にかけて、これらの村々は公式なものとしては存在しなかった、ということになる。
 こうなると、青塚、二亦など千々乱風伝説にまつわる集落は幻にすぎないのではないか、単なる伝説上の創造にすぎないのではないか、という疑問が湧いてくる。千々乱風伝説自体があやしくなってくる。だが、これらの集落の存在は次の二点から確認される。
 一つは、沢田川付近の海岸地帯、これらの集落があったと伝えられる地域に、室町時代から近世初期にかけてと推定される遺跡があることである。遺跡からは、当時をしのぶ人骨、古銭(唐銭、宋銭、明銭)、それに内耳土器などが発見されている。遺跡の存在は、いうまでもなく集落の存在を示す。
 もう一つは、寛永12年の酒列神社の棟札に「青塚村石田治右衛門二亦村西野主水」と銘じられていることである。おそらく、移住後まもない時期に、両集落出身者が往時をしのんでこの村名を使ったものであろう。二つの集落がかつて存在したことはこれで確認できる。
 移住の謎をさぐる千々乱風伝説を生み出した歴史的事実を探るため、さらに、次のニ点について考えよう。ひとつは移住した年代はいつかということであり、もうひとつはなぜ移住したかという、移住の理由である。
 移住年代は、ほとんどの記録が元和年代、しかも元和3年としているように読みとれる。しかし、これは微妙である。元和3年に強風が吹いて、それでその後(いつかははっきりしない)に移住した、実際の移住年は元和3年よりもっと後であるとも、解釈できる。
 『徳川実紀』には、元和3年の2月と4月に大暴風雨があったと記している。元和3年に千々乱風伝説にふさわしいような大暴風雨があったことは事実であろう。ただし『前浜村誌』に8月19日より75日間としているのは、事実誤認といちじるしい誇張がみられる。
 移住は同時期に一斉に行われたものではないであろう。突発的な災害で壊滅的な被害を受けたような場合、まとまって移住するというより、むしろ、除散するというのがふつうである。移住は、元和3年の大暴風雨の後(あるいはその前後に)、一定の時間をかけて、計画的に行われたものであろう。
 それでは移住の計画性とは何であろうか。いままで述べてきたことからいえば、単に強風の難をのがれるというだけでなく、何らかの積極的な意志が働いていたことになる。移住の理由をもう少し掘り下げてみなければならない。それには、ほとんど同時期の次の史料が示唆的である。
「指上申手形之事
ー、村松東方之百姓居屋敷、毎年砂に吹うめられ迷惑申候間、御神領之内松之一本も無レ之明地御座候間、是お屋敷二立申、歩い牝度由、御別当衆へ御佗言申候へハ、御代官より御状一通被レ下候様ニと被仰候間、御状被遣被下候事(中略)
右之段ふかくうけおひ手形指上申候所実正也仍如件
元和九年癸亥三月七日
村松浜之百姓衆(以下一七名連印)
田中助右衛門様江」
 村松村内の村松浜というところの百姓屋敷が「毎年砂に吹うめられ」こまっているので、村松大神宮内の空地に移住したいという希望である。その希望が代官所より認められたときに提出した手形が、この史料である。
 ここでは「毎年砂に吹うめられ迷惑申候」に注目したい。元和3年の大暴風雨、あるいは千々乱風と呼ばれるところの特定の災害が問題なのではなく「毎年」が問題なのである。風の被害は例年のことなのである。しかも、願い立てて許可をうけ、それから移住するという手続をとっている。これは千々乱風伝説とずいぶん違っている。
 この辺の事情をさらに明らかにするため、もう一つの史料をみてみよう。
「乍恐否付ヲ以辛ニ願上一候口上書之事
ー、私先祖監物と申者、当弍百拾年余以前、当村宿通り三ヶ村ニ而下タ浜と申場所二、右監物百姓相立從有候所二、
浜付之場所二御座候二付、度々悪風二而家敷砂二被二吹潰ー候而難儀仕候二付、右之段奉二願上【只今曜有候場所者、
先年散野山之場所ニ御座候所居屋敷二奉二願上一候所、願之通被二仰付〔居屋敷畑高百弐拾六石余切開、其節百姓家
数廿三軒相立權有候儀、右申上候通り、三ヶ村之内前八青塚浜後ハニ亦浜右弐ヶ村共二被二吹潰ー候二付、右監物
両村共二又々奉二願上』切開当宿通り家数百四拾軒余百姓相立申候故、為二御褒美一監物居屋敷懸高四石永之作取
二被二下共只今迄難レ有所持仕候所、其後三ヶ村之所巳ノ御検地(寛永検地のこと…注)前、監物奉二願上一本郷ヲ入
四ヶ村之場所老ヶ村二奉二願上一…
宝暦拾四年申ノ三月」
 「度々悪風」が吹くので「御上」に願い出、その許可をうけて移住したという点は、さきの村松村の場合と同じである。移住前は下タ浜というところに住んでいたが、監物ら23軒の移住によって、屋敷地、畑地合わせて126石余りを開発したという。ところがその後、青塚浜、二亦浜の2か村が吹きつぶされたので、監物と右の2か村の住民が語らって願い出た。そして再び開発し、馬渡村宿通りに140軒余りが住みつくことになったという。この功績によって監物は、四石の「永之作取」(貢租免除地)をたまわった。その後寛永検地前に、これらの地域をあわせてーか村、すなわち馬渡村になった。
 ここでは移住が2段階にわかれている。いま仮にそれを第1期、第2期と区分し、それぞれの時期の移住経過を要約すると、表のようになる。
 第1期と第2期はかなり違っている。第1期は「度々之悪風」で移住を余儀なくされたので、村松村の場合の「毎年砂に吹うめられ迷惑申候」と同じ理由である。しいていえば、第2期が千々乱風伝説に該当する。
 第1期、第2期はそれぞれいつかということであるが、第1期は、冒頭の「当弐百拾年余以前」が目安になる。宝暦14年(1764)から210年前、つまり西暦で1554年、天文23年ということになる。天文23年ごろは、まだ武田、上杉の川中島の合戦の時期であり、織田信長が桶狭間に今川義元を奇襲したのはのちの永禄3年(1560)であった。まだ戦国時代であり、佐竹氏による支配が成立する前であった。この年代はそのまま信ずるわけにはいかない。戦国時代の末期から近世のごく早い時期にかけてと、一般的ないい方をしておこう。第2期は、元和3年の大暴風雨をすぎた時期とみてよいであろう。もちろん一斉に移住したわけではない。もし一度に140戸も移住すれば、耕地不足で生活がなりたたないであろう。一定期間、計画的に、協力して耕地を開発しながら移住していったものであろう。
 ここで大事なことは、移住が開発を伴っていることである。第1期は126石余、第2期は不明である。第2期のときは、実は監物が馬渡宿の問屋を願い出「御了簡之上問屋役儀被二仰付」ている。馬渡宿が作られたのはこのときであり、飛田監物はその問屋役を命ぜられたのである。第1期は主として新田開発をもたらし、第2期は宿場の創設と新田開発(具体的には不明)をもたらした。

開拓と千々乱風伝説

 千々乱風伝説から、説話的要素をはぎとれば、あらましこんなものであろう。
 千々乱風と呼ばれる大暴風(雨)は、強いていえば元和3年の大風である。ただし月日は伝説と異なっている。この大風の吹いた元和年代ごろ、沢田川付近の海岸地帯住民は、隣接した前浜、馬渡、長砂などの地域に移住した。移住の直接的契機は、たしかに元和三年の大風をはじめとした、たびたびの風害であったろう。強風による災害をのがれて、安全地帯に移住したのである。そして、その地域でたくさんの新しい土地を開拓した。しかしこの開拓は、移住の結果としてというより、移住しながら行われた。この人たちには開拓は移住の前提としての願望でもあった。しばしば強風の被害をうけながら生活を続けていた劣悪な立地条件からのがれるためであり、近接した地域に生活の場を求めるという開拓移住でもあった。
 ここで一つだけ注目しなければならないのは、馬渡村飛田監物の役割である。飛田家は武田民部少輔の旧臣とされているが、いうまでもなく近世初期には土豪系百姓であった。開拓移住には、彼の指導性が十分発揮されていたと思われる。その結果が「四石永作取」という恩典の付与であった。これは中根六ケ新田庄屋の打越家を思わせる。馬渡村への開拓移住には、土豪開発新田としての性格がふくまれていそうである。特に第1期126石余の開発にはその色彩が濃い。元和年代という時代背景も、その可能性をよりいっそう強くしている。
 千々乱風伝説というのは、こうした歴史的事実を次第に修飾していって形成されたものであろう。それがいつ、なぜこのような伝説としてまとめられたか、どのように伝承されていったか、これらのことは今後の研究にまつほかない。ただ、民衆の素朴な生活内容から生みだされた伝説であることだけは確かである。

以上

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