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力道山&死闘を演じた男たち vol.3

リングに叫び、拳を突き上げたあの日。今もこの胸に燃えさかる熱き炎のファイターたちをイラストとエッセイで綴るプロレス讃歌!


力道山&死闘を演じた男たち vol.3

全国のプロレスファンの皆様こんばんは。『週刊アイアンクロー』編集長のチャーシュー・タケです。今週はお茶の間を震え上がらせた“吸血鬼”ことフレッド・ブラッシーです。

イラスト 志賀コージ

●金曜夜8時、噛みつき魔現る! ~戦慄のテレビ観戦ショック死事件~

黎明期の“昭和プロレス”というのは、極悪非道の敵役(外人レスラー)がいて、彼等からこれでもかと浴びせられる反側技や荒技にも耐えに耐えながら、最後の最後には“怒りの鉄拳”を放つ日本人レスラーの雄姿に熱狂する! それが定番でした。後年に大ヒットする『東映任侠映画』に通じる図式です。当時、これをより具現化するには「プロレス」が最も適していたのですね。一方で、場所をアメリカに移せば立場は逆転し、我らが日本人が憎い敵役となったのです。アメリカ修業時代のジャイアント馬場も例外ではありませんでした。
力道山によって扉が開かれた日本のプロレス。そのリングには数々の敵役が登場しましたが、その中でもインパクトの強さにおいてこの人に右に出る者がいないのが“吸血鬼”ことフレッド・ブラッシーでしょう。なにせ、最大の反側技である「噛みつき」がトレードマークですからね。それはもう毎回流血のオンパレードで、試合会場は悲鳴と怒号と戦慄に包まれました。ついには、テレビ観戦していた複数人の人がショック死するという驚愕の事態を招いてしまいます! 昭和37年(1962)の出来事ですが、私はまだ幼かったので記憶はありません。当然ながら社会問題にもなり、慌てたテレビ局が、当時最新であった「カラー放送」を白黒に戻したほどに、その衝撃度はダイナマイト級でした。あぁ、恐ろしきかなフレッド・ブラッシー。それでも、今にして思えば、その凄まじいほどのプロ意識にはただただ脱帽します。私が本格的にテレビでプロレス観戦を始めたのは、昭和45年(1970)だったか。
だから、初めてブラッシーをブラウン管越しに観たのは、翌年5月の日プロ・ゴールデンシリーズ。一応エース格だったと思うが、御年53歳の春。どんな技を繰り出したかは定かではなく、キレイに整った歯をヤスリで研くパフォーマンスだけが鮮やかに記憶に残る。

◼️『プロレスダイアリー甦える鉄の爪』は毎週木曜日に更新します。

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