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【答える力ではなく「問う」力を育む】

先日映画館の前を通った時に
目にした作品の告知ポスター。

あ、見てみたい、と思いながら、
すっかり意識の片隅に追いやられて
忘れそうになっていたのですが、
ふと隙間時間ができ、見に行くことができました。

『ぼくたちの哲学教室』

じわじわ、と心に染み入る素晴らしい作品でした。

と同時に、見ている私自身に
真っ直ぐ問いを投げられる。
そんなインパクトもありました。

校長先生から一貫して伝わってきたのは、

「子どもたちは、自ら考える力を持っている」

というスタンスです。

校長先生が子どもたちに対して、
とてもシンプルで本質的な
問いを投げるシーンが多くあります。

その度に、子どもたちが、
うーん、と考え、自分の中にある
考えや気持ちを言葉にする。

そして、自分以外の誰から
出てくるものに耳を傾ける。

人が人に「問う」とき。

そこには二つのスタンスがあるように感じます。

一つは、

自分が答えを持っている、
もしくは然るべき答えが存在していて、
その”正しい””求められるべき”答え
相手の口から出ることを目的として問う。

というスタンス。

もう一つは、

相手には、”何か”がある。
そしてその”何か”こそが大事であり答えなのだ。
だからこそ、あなたの中にあるそれを
私は知りたいし、聞きたいし、一緒に見つけたい。

というスタンス。

私自身は、子どもたちに対して、
無自覚に一つ目のスタンスを
とっていることがあることにも気がつくし、
二つ目のスタンスを自分は大事にしていたい、
という願いがあることにも気がつきます。

「哲学のいいところは、なかなか答えが出ないところだ」

というような言葉を校長先生が言っていて、
とても共感しました。

私は、哲学とはなんぞや、
ということはわからないけれど、

”哲学”を、”人生”と置き換えて、
人生を捉えているところがあります。

大切で、本質的なことであればあるほど、
そんなに簡単に答えなんて出ない。

そして、子どもたちは、彼らの人生の中で、
たくさんの、すぐには答えが出ない問いを
彼らの中に抱き、歩んでゆくのだろうと思います。

誰かが与えた答えが
自分にとっての答えだと思うことなく、
社会的に正解だとされる答えに
自分を合わせることなく、
「問い続ける」ことをしてほしい。

その歩みは、必ず彼ら自身の答えに、
自らをリードしてくれるはず。

そして、彼らが問い続ける力を自ら育み、
問いと共に生きる人生を歩むために、
彼らの一番身近な大人である私が、
答えを与えるのではなく、
問い続けることをできているのか。
そのことに自覚的でありたいと切に思います。


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