幸せについて本気出して考えてみる前に気づいたこと

幸せの感じ方は、さまざまだろう。

私もそれなりに幸せを感じて生きてきたと思う。志望校に合格したとき、コンクールで入賞したとき、誰かに頑張りが認められたとき、好きな人と結ばれたとき…。
その時々で変わる幸せを噛みしめながら、一方で取るに足らない挫折を経験しながら、現在に至る。

じゃあいまの幸せはなんだろう。

大好きなポルノグラフィティの楽曲にもあったように、「ちょいと本気出して考えてみるか」などと思ったが、そこまで本気で考えなくても、その答えはすぐに見つかった。

私の幸せは、息子たちの成長だ。
彼らのうれしそうな顔、楽しそうな様子を見るのが、私の何よりの幸せなのだろうと、日々感じている。

しかし、生まれた瞬間から今日まで、何年間も毎日そう思っていたわけではない。

もちろん生まれたときは喜びに満ちあふれていた。夜泣きで眠れなくても、母乳で栄養を摂られてボロボロでも、私は幸せだったと思う。しかし、数年前、2歳差の彼らが保育園に通うようになった頃、私自身はあまり幸せではなかった気がする。

そうなった原因の1つは、コロナだろう。

在宅ワークでそもそも閉鎖的な生活をしていた私は、さらに閉鎖された世界のなかで、まだまだ日本語の通じない息子たちだけを相手にするのが苦しかった。
「私だって人間なのに」「誰かに認められたい」「私の存在に気づいてほしい」と、本気で思って逃げたのは、インターネットの世界だった。今思うと、当時の私は病んでいたのかもしれない。
当時は子どもたちだけでなく、夫を含む、身近な大人と会話をするのも億劫だった。常にイライラして、1人になれる空間と時間に逃げ込んでは、画面の向こうにいる「仲間」に、可能な限りの私の時間を捧げた。

転機がいつ訪れたのかは、覚えていない。
急に目の前が晴れたような気持ちになったわけではなかった。時代がアフターコロナになり、さまざまな行事が再開され、ママ友や近所の人との交流が増えていくうちに、私の気持ちも生活も元通りになった。多分、ここ2年くらいの話だろう。
そこからはもう、失った時間を取り戻すかのように息子たちとのコミュニケーションに全身全霊を注いでいる。時間は戻ってこないのだけど。

そうこうしているうちに、息子たちは2人とも小学生になった。私の心が幸せではなかった1年ちょっとのあいだ、それでも時間と気持ちの許す限り彼らに接してはいたし、彼らもまだ小さかったので、「ママに放置された」「ママがおかしくなった」とは思っていないようなのがせめてもの救いだ。
きっと私の「それなり」の頑張りを褒めてくれる存在は、息子たちだったのだろう。

私の幸せを考えると、同時にこのいい年をして迎えた暗黒期を思い出す。そうして苦い気持ちになるが、そのおかげか、私はいまの幸せをより強く感じられる。
彼らが成功したり誰かに認められたりすれば、私もうれしくなる。彼らが好きなものを手に入れて喜べば、私も心が温かくなる。彼らの一喜一憂が、私の心を大きく揺さぶる。全力で泣いたり笑ったり怒ったりケンカをしたりして、夜になると電池が切れたようにストンと夢の世界に行く子どもたちを見ていると、胸がいっぱいになる。

他人からすれば、ささやかな幸せなのだろう。だけど私にとって彼らは、やっと手に入れた大好きな幸せの種なのだ。

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