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誰かが考える「常識」や「モラル」を押しつけられるのが嫌すぎる

ここに書いてもう二度と話さないつもりの話だが、公園で全く知らないおじさんに「お姉さん、常識ありますか?小学校出てますか?」と急に言われた。何が気に障ったか知らないが、同じ空間にいた男性やカップルは何も言われていなかったので、一人でいた私を狙って言ったことは分かった。

見知らぬ人に注意や指摘(?)ができる方々に共通しているのが、自分は正しい側だという意識だ。「〇〇警察」なんて言葉があるが、ああいった人は正しい知識を無知な人に教えている(指摘している)といった意識があるからこそ、全然知らない人に話しかけられるのだと思う。

オンラインでもオフラインでも相互監視が強まる中、「モラルを正す側」にいる限りは他人に注意や指摘をしてよく、それをする自分は正しいと考えている人が増えた。

少しでも自分が間違っているかもしれないとき、私は全然知らない人やアカウントに急に話しかけたりできない。だから見知らぬ人に「常識ありますか?」と話しかけるおじさんは、私の「常識」から外れまくっている。

しかしそのおじさんにとっての「常識」がまた別にあるらしく、私に話しかけることで自分の中の常識や正しさを守っているのだと思う。

何の関係性もない人に注意するモラル侍

見知らぬ他人に注意や指摘という形で接触する人のことを、仮に「モラル侍(といっても女性もいる)」と呼ぼう。

モラル侍はおそらくモラハラとは違う。モラハラはどちらかというと、パートナーや職場関連など関係性がある相手との間に起こっていると思う。ある程度従わないといけない関係性だからこそ、ハラスメントだと感じつつも相手の発言を受け取らなくてはいけない。

翻って、二度と会わないような他人の暴言には、まともに耳を傾けることもないだろう。家族や上司、お客さんといった逃げられない関係性がない限り、基本的には他人の敵意や怒りに真摯に対応すべき義理はないのだ。

しかしモラル侍は、私との間に何の関係性がなくても絡んでくる。それこそモラル侍にとっては「モラルに反した人とそれを正す自分」という関係性ができあがっているのだろうが、話しかけられた側からすると、「まずあなた誰?モラルとは?私は反しているのか?それをあなたが物申していいことになっているのか?なぜか?」と疑問しか残らない。

モラル侍に出くわす度に結局思うのは、「なんでそれを私に言ってもいいと思ったのか?」である。

私は冒頭のおじさん(=モラル侍)を全く常識的だとは思えないが、本人はわざわざ「常識」という言葉で私に暴言を吐いていた。「自分は正しい、だから他人に物申していい」とその人に思わせる「常識」とはなんだろうか?

その「常識」は私とは全く共有できておらず、その人との関係性もないので今後も共有できないが、それは「常識」と言えるのだろうか。

イチジクを指で押してる人にどう対応するか?

例えば先日、スーパーで全てのイチジクを指でプニプニ押していた50代くらいの女性がいた。こういった警察を呼ぶほどではない問題について、人によっては自分ですぐに声をかけて解決できる人もいるかもしれない。その場合においても、「お姉さん、常識ありますか?」とは絶対に話しかけないだろう。

つまり私の中で、柔らかいイチジクを指で押すのは、果物が傷むし衛生的ではないので、物申していいか迷う程度には「モラル」に反している。だからと言って、イチジクを押してる人に「常識ありますか?小学校出てますか?」と言ってる人がいたら「変な人」だなと思う。

私が「変な人」と思う根拠は、イチジクを指で押している人には「常識ありますか?小学校出てますか?」と言っていいと思っている人の感覚だ。
(私はイチジクを押してもいないのに「常識ありますか?」と言われたが)

つまり私がここで問題にしている「モラル」や「常識」は、どのような行為が許せないかではなく、ある許せない行為に対してどのように振る舞うかに現れている。

許せない人には暴言を吐いてもよく、それが赤の他人なら後腐れもないと考える人もいる一方で、私は赤の他人への暴言のほうが許せない(恨みがある知り合いへの暴言とかならまだしも)。

道徳心が強いことと他人を罰したいという気持ちの大きさは、もしかしたら比例するのかもしれない。しかし他人を罰する行為自体が、(言い方とシチュエーションと相手によっては)モラルに反していることはある。

正しさは多数決ではない

おそらくモラル侍は、人間をオセロのように思っていることが多い。自分が黒色だったら、白色の人間を注意して、自分と同じ価値観になるようひっくり返さなければ、と思っている。

しかし世の中の正誤は、オセロのように白黒の2色ではない。2色の間にあるのはグレーだけでもない。自分が黒いからといって、意見の違う他人がみんな白いわけではない。

白でもグレーでもないマイナーな色の人も多く、その人たちを言い負かしてひっくり返したところで、黒色になんてならない。色の違う人を責め立てたところで、せいぜい「私は黒色です」という意見表明ができるだけで、その人の正しさの証明になんてならない。

そして多色で雑多な世界では、多数決で正解を決めづらい。自分から見て黒っぽい盤面に見えていても、それは身内や考え方が近い人だけで構成された、ものすごく狭い世界だったりする。正確を期せば期すほど、「自分から見えている世界では今のところ黒色が多数派だ」としか言えない。

私は修論のときから「認めるとは同意や賞賛をすることではなく、否定する必要がないと気づくこと」だと言い続けている。TEDxでも、全員にとっての「唯一の正解」は無いと主張するのに15分費やした。

意見の違う人に同意したり褒めたりなんかしなくていいし、それと同じぐらい、意見の違う人を否定したり正そうとしたりしなくていい。
そう思うだけで、言葉の攻撃性は削がれると思う。


私にとっては、誰かを正すこと以上に、自分が正しく生きることが大事だ。それも、人を否定しない形で。

これは綺麗事ではなく、唯一の正解なんてないのに他人に「これが正解だ」と一方的に押しつけられるのがこの世で一番許せないから、私も押しつけたくないだけ。

もし誰かに意見を投げかけたいのであれば、ある程度の関係性を築いている人に対して行うべきだ。間違っても、道端で出会った人に暴言を吐いたり、Twitterをしていなければ出会ってもいない他人に怒りをぶつけたりしている場合ではないと思う。

見ず知らずの他人に自分の価値観をぶつけるのは、暴力に近いのではないだろうか。


私の価値観は薬にも毒にもならない形で言い換え、こうしてネット上にそっと置いておくことにする。

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