【TED全文】否定と分断を乗り越えるフレーズ:だから「これもお茶だ」と言い続ける
否定と分断を乗り越えるフレーズ:だから「これもお茶だ」と言い続ける
上記のTEDx Talkの原稿です。動画に合わせて一部語尾など変更しています。
「これもお茶だ」と言い始める
改めまして、矢島愛子と申します。お茶に関する仕事をしているので、「茶人」と紹介していただくこともあります。英語で茶人はtea masterといいますが、マスターという言葉がしっくりこないため、「Teaist」と名乗っています。
実家が代々茶道をしていたわけでもなく、親は書道をしています。なぜ私が書道ではなく茶道をしているかというと理由は一つで、食べることのほうが好きだったからです笑
茶道の仕事といえば、一番メジャーなのは茶道教室の先生ですが、私は先生ではなく、今は生徒でもありません。
仕事でもプライベートでも、茶道教室ではない場所で、お茶を振る舞ったりお茶の写真を撮ったりしていますが、その目的は「これもお茶だ」と言い続けることです。
急に「これもお茶だ」と言われても、どういう意味だかよく分からないですよね。
私のような茶道教室に通っていない人、もしくはあまり茶道に詳しくなさそうな人が自己流でお茶を点ててお茶会をしていると言われるのが、「これはお茶じゃない」という言葉です。それを踏まえて「これもお茶だ」と言い続けているのが、私の活動です。
茶道をしている人の大半が茶道教室に通っているため、教室に通わずにお茶を点てている人は少数です。教室に通わずにお茶を仕事にしている人は、もっと少数です。マイノリティと言っていいでしょう。
当たり前から外れた人がマイノリティになるのは、茶道に限った話ではありません。たとえば「ご結婚されてるんですか?」とか「大学はどちらですか?」と何気なく聞いたり聞かれたりすることがあります。でも日本人の生涯未婚率は年々上がっていますし、大学進学率も55%前後です。二人に一人は大学に行っていません。
ある人が常識だと思っている内容を前提に話を進めると、その常識から外れた人は、嫌な思いをするかもしれません。
「これもお茶だ」と言うことは、茶道の世界でマイノリティな私が生き延びるためのスキルでもありました。常識を盾に否定されたとしても、「これも〇〇だ」と言うことで、自分の意見を示すことができます。
しかしもっと大事なことは、「これ"も"〇〇だ」と言うことで、自分の意見を主張しながらも他人を否定せずに済むということです。
人を否定しないよう意識するだけで、あなたの意見が通りやすくなったり、面白がってもらえたりします。そしてこのトークを聞くことで、あなたが無意識に排他的な発言をしてしまっていたとしても、これからはマイルドに言い換えられるかもしれません。
私もまだこのスキルを完璧にマスターしてるわけではないので、もし途中で排他的な発言をしていても、このトークを聞いた人だけの秘密にしてください笑
茶道に馴染めなかった理由
この「これもお茶だ」というアイデアに至ったのは、茶道という少し特殊な世界の影響があります。
まず、茶道は決まり事が多いという印象があるのではないでしょうか? 実際その通りなのですが、大きく分けて2種類のルールがあると思っています。
一つ目は、ゲームやスポーツのルールと似ています。茶道でも、茶室の中では特殊なルールに従う必要があります。というのも現代の茶道は、参加者全員が特別なルールに従うことで生み出される独特の世界観を味わう遊びでもあるからです。
そして二つ目の決まり事は、茶道教室に通い続けるためのルールです。ただしこのルールは、教室によって大きく異なります。
お中元やお歳暮といった季節の挨拶を例に挙げてみます。お世話になった人や先生に、ビールやゼリーなどを送るしきたりは、伝統的な習い事の世界には根強く残っています。それ自体は全然構いません。
面白かったのは、私がいた教室では、食べ物ではなく、現金を納めるように指定されていたことです。そしてそのお中元やお歳暮の金額は、送り先である先生本人が定めていました。
こんなルールがある教室ばかりではないので、これから茶道を習う方もそんなに心配しないでくださいね。
これらはあくまで私がいた教室の話です。変わってるなぁと内心思っていましたが、教室に通わずに茶道を続ける方法なんて思いつきませんでした。他の生徒さんたちもみんなお金を納めているし、他の教室に移っても同じルールがあるかもしれないし、それは移ってみないと分からない...と当時は思っていたんです。
でもどうしても、先生の言うことが絶対的な唯一の正解であり、従わないという選択肢がないその教室に馴染めませんでした。
結局辞めてしまい、私は一人になりました。
既存のお茶について
そこからは、主に茶道を習っている人たちから「これはお茶じゃない」と言われるようになります。
もちろん趣味でお茶を点てているだけなら何も言われないことが多いですが、お茶会などを開いて人前に出るようになると、何か言われることがあります。というのも、お茶会は茶道の基本をしっかり学んだ人がするべきものだと思われているからです。
私のような教室に通ってもいない人が茶会をして、それが全然「彼らや彼女らが考える茶道」でなければ、たしかに「これはお茶じゃない」と言いたくもなるでしょう。
この「これはお茶じゃない」という言葉には、2つの意味があります。
一つ目は、人々を2種類に分断する意味です。茶道教室に通っているかいないかという基準で、教室に通っていない人のお茶と通っている人のお茶は違うと区別しています。
そしてもう一つは、「これはお茶じゃない」と言っている人が、他の人をジャッジする側に立っているという意味です。「これはお茶じゃない」という言葉は主に、教室に通っている人が、通っていない人に対して言います。
茶道教室に通っていることでマジョリティ側に立っているからこそ、通っていない人に対して言える言葉です。
常識や当たり前という後ろ盾があるから、マジョリティ側がマイノリティに対して強く言えるというケースは多々あります。
逆に言うと、常識から逸れてしまい、「みんなもそうしている」と言える後ろ盾がない人は、マイノリティ側にされがちです。
自分にとってのお茶とは
茶道教室を辞めてからは、教えてくれる先生も、一緒に学ぶ仲間もいなくなりましたが、私は一人でお茶を点てていました。食べ物と同じぐらいカメラも好きなので、毎日お茶やお茶を使った料理の写真を撮っています。
お茶から離れるのではなく、写真を撮って食べるという、自分の好きな部分だけに絞ったお茶をしたことで、新たな価値を見つけることができました。
茶道のルールで決められている道具もあまり使わないため、私のするお茶は全然「茶道」らしくありません。でも私は、お茶と向き合っている時間は全て「お茶」と呼んでいます。
大学院でも茶人の研究をしていたので、私にとっては論文を書く時間も「お茶」でした。専攻していた文化人類学では、他人は自分とは違う合理性の元に生きていることを学びました。
つまり、自分にとっては理解しがたい文化でも、誰かにとっては正しいかもしれないということです。
先ほど例に挙げた、お中元やお歳暮を現金で支払うルールも同じことです。先生からしたら食べ物ばかりもらっても食べきれませんし、生徒からしても、金額の相場がわからないと、いくら払えばいいのか迷ってしまいますよね。
だったらお中元とかいらないんじゃないの、と思う人もいるでしょうか?笑
このうち誰かだけが正しいわけではありません。立場が違えば、正解も違うのです。
「全ての文化は優劣で比べるものではなく、ある文化を外部の価値観によって測ることはできない」という文化相対主義の考え方や、その他の文化人類学者の思想が、「これもお茶だ」と言っている背景にはあると思っています。
そうして、茶人に関する論文をいくつか書く一方で、人前でお茶をする機会も増えてきました。
茶道教室とは程遠いイベントなどでお茶を振る舞ったりする中で、ただただ、茶道教室に通う以外にもお茶を楽しむ方法が増えたらいいなと願ってきました。
「唯一の正解」は存在しない
しかしあるとき気づいたのですが、人から否定されたくないと思って続けてきた自分の活動が、逆に誰かを否定していることもあります。
私は茶人や茶道教室についての修士論文や文章をネットで公開していますが、私の意図とは異なる反応をいただくこともありました。
茶道教室で体験したことを話せば、それが事実だろうと、反論は必ずあります。
しかし私は、他にいくらでも素晴らしい教室があることを知っています。茶道そのものがとても優れた文化であることも、分かっています。
しかしそれでも、とある教室で私が体験したこと自体は消えません。その実体験を話すことがこんなにも難しく、「茶道教室以外にもお茶の楽しみ方はある」と、そんな単純な主張をすることが、こんなにも大変なのだなと何度も思ってきました。
このトークだって、茶道教室の先生が聞いたら仕事を否定されているように感じるかもしれません。これから茶道を習いたいと思っている人が聞いたら、習わないほうがいいのかなと思ってしまう可能性もあります。
あくまで私が言いたいのは「これもお茶だ」というアイデアについてであり、茶道教室を否定したい訳でも、教室に通わないように勧めている訳でもないのに、です。
茶道を習っている人も私も、それぞれお茶をしているだけなのに、その方法が違うと食い違ってしまうことがあります。
おそらく、あなたが何か発言したり行動したりするときも、あなたとは違う考え方で同じことをしようとしている人を刺激しています。良くも悪くもです。
私たちが何かを行動したり主張したりする時、自分と違う考え方の人は必ずいます。そしてその人と自分にとっての「正解」はそれぞれ異なります。なのに片方だけが正解だと考えると、もう一方は間違いだということになってしまいます。
何か一つだけが全員にとって絶対的に正しく、それ以外は全て間違いだといえるほど、世界は単純ではありません。
だから私が茶道教室に通っていないからといって、全員が私のように一人でお茶を点てていたらいいとも思っていません。私のお茶の仕方は世間から浮いていて、同じ温度で、同じ熱量でお茶をしている人になかなか出会えない寂しさもあります。
つまり私は、自分のしていることが誰にとっても正解だとは思えていないのです。だから「私のしていることこそがお茶だ」なんて、一度も言ったことはありません。
「これこそがお茶だ」「あれはお茶じゃない」と断定できるような基準は、私たち一人ひとりの心の中にしかないと思っています。
自分なりに見つけた正解
先ほども触れたように、全員がそれぞれの合理性に基づいて行動しているので、私にとっての正解は、誰かにとっての間違いかもしれません。
そんなときに、どうしたら誰かを不用意に攻撃せずに、自分にとっての正解を貫けるのでしょうか?
それを考えたとき、「これもお茶だ」というフレーズを使うようになりました。
「これも〇〇だ」と言うことには、どんなメリットがあるでしょうか?
全ての人間が違う考え方をして、人の数だけ正解があるとき、「私こそが正解だ」と言ってしまうだけで、自分以外の人がみんな敵になってしまいます。
しかし、自分とは違う考え方の人がいるという大前提を元に「これも〇〇だ」ということで、自分以外の人を否定せずに済みます。
つまり「自分にとっての正解」を他人に押し付けなくてもよくなります。その分、誰かが嫌な気分にならずに済むのです。
否定せずとも自分の意見を主張する
これまで長いこと一人でお茶を点ててきましたが、「これもお茶だ」と言い続ける過程で、明らかに「お茶じゃない」人たち、つまり完全に異分野の人とコラボすることが増えました。3Dプリンタや現代音楽が専門の人たち、エンジニアの人たちなどです。
違う分野の人が、その分野とお茶の交わりそうな部分を見つけ、「これもお茶じゃないか?」と言ってくれたことで、新たな価値を創り出すことができ、自分の実力以上のことを成し遂げられてきました。
だから「これもお茶だ」と言い続けることには、ただお茶をしているだけではありえない化学反応を起こす力があります。
「これこそがお茶だ」と言い切れる強さとはまた違う、力があります。
他分野の人が「これもお茶だ」と言ってくれることは、私にとって最高の後ろ盾に感じました。「これもお茶だ」というとても簡単な言葉ですが、自分の考え方を理解してもらえていると感じられたのです。
そのため、人を否定しないことは、回り回って、味方を増やすことにもなると思っています。人の数だけ正解があるこの世界で、敵を作らないことは難しいかもしれません。でも、誰かを否定せずに意見を主張することができれば、無闇に敵を増やすことなく、自分の主張に共鳴してくれる人と繋がれます。
あなたがもし「自分こそが正しい」と言いたくなったときは、「これもお茶だ」という謎のフレーズを思い出していただきたいです。
「これこそが〇〇だ」という否定ではなく、「これも〇〇だ」という考え方で、他の人の中にも、自分の中にも、価値を見つけることができると思います。
ありがとうございました。
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