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私が不幸だった頃の知り合い

とんでもないタイトルだけが先に浮かんだ。

「不幸だった」といっても、常に一年前の自分は愚かだと思っているので、あの頃と比べたら今は幸福だな、くらいの意味である。ましてや数年前の自分なんて、今だったら絶対にしない行動をして、しなくていい失敗しかしていない。

つまり過去の自分はいつだって、現在から見たら「ぼんやり不幸」なのである。

だからここでいう「不幸だった頃の知り合い」は、「過去に出会った人」ぐらいの意味しかない。もう一つ定義を追加するなら、「少しマシになった今の私を知らない人」だ。

数年会っていなくてもSNSでキャッチアップできていれば、そして今でも会話できそうな相手であれば、「不幸だった頃の知り合い」には該当しないと思う。ただし私が数年前のまま何も変わっていないと思っている人とは、うまく会話できないだろう。

そして何より、数年前の私のほうが良かったと思っている人がいるなら、今その人と会話してもお互い幸せにならない。昔のほうが良かったと言われても、もう既に別の方向に進んでいる。

その事実が相手をガッカリさせていても、その「私が不幸だった頃の知り合い」の意向に沿う気は全くない。


もし私が急に悪行に走っていたら昔のほうが良いだろうけど、そうでなければ冒頭の通り、一昨年より去年、去年より今年のほうが幸せだ。

昔していたことを今も期待されたら、それは昔の私が評価されているのであって、今の私はあまり嬉しくない。

過去の自分は、しなくていい失敗をして、価値観の異なる人たちにばかりジャッジされ、勝手にガッカリされ、「他人が思う私」は私本人とズレていて、がむしゃらに頑張れば頑張るほど理想から遠ざかった。

あの頃のほうがよいと言われると、「不幸なままでいろ」と言われたような気分になる。

あの日々が無駄だったとは自分でも思わない。今こうして立っている足場は、紛れもなく「不幸だった頃」に積み上げたものだ。

ただしあの頃のほうがよかったと言われたら、それは否定する。もう次なる足場を作っている最中だからだ。その工事の過程は荒廃してるように見えるだろうけど、それは当然のことだろう。


人は数年ごときでは変わらない。でもどうしても「不幸なまま」でいたくないから、考え方と行動を変える。そのうち9割くらいは愚かな選択をする。でも1割のおかげで人生が少しマシになる。その連続が自分だ。

来年また今の自分を愚かだと思うだろうけど、それは1割うまくいった結果だ。「私が不幸だった頃の知り合い」を置き去りにして進んだ分だけ、来年は違う世界が見えていますように。


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