第31回 村長散歩日記【日常散歩編】 231029(週末配信)
(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
せわしなく季節は過ぎてゆきます。ここ神奈川では大雨が降りましたが、そのあとの紅葉の色づきが一段と進んだのがうれしい。雨降って地固まると言いますが、寒さの後に温かい日差しが戻り、そうして体をなだめるように徐々に冬が近づくのを感じるこの頃です。
~~~~~~~~
【第32回:マインドフルネスは「私からの自由」】
*「私の自由」と「私からの自由」と講座でも言うことがある。それが瞑想では大問題だ(「私問題」)。私の自由は、自由を獲得したあとでも私がそこにいる。あくまで私のための、私が前提の自由だから、「私のための益」をどこまでも追及する。
「私から」の自由では、益を求め続けるような〈私の重さ〉を降ろしてくつろぐ。数々ある重荷のうちでも、もっとも重いのは「私」という荷物だ。どこへ行っても私が付きまとい、「ああしろこうしろ」と言われ続ける感じ。それがぼくにはどうにもうるさく、重苦しくすっきりしない感覚になっていた。
その重さがどうにも逃れられない痛切な問題として迫ってきたのは、長年患ってきた病気の末だった。社会復帰を願っても、その通りにかなわない願いもある。開き直りなのだが、もはや開き直ることしか残されていないほどに追い詰められていた。
「あきらめた」という言葉は、なかなか言えないものだ。あきらめてこそ浮かぶ瀬もあることを、ぼくは20代終わりころに知った。ぼくは幸せを求めなくなった。つまり、それまで求めてきた幸せ--学歴、職業、収入、家、地位、パートナー、人間関係—は、一時的なもので、本当には求める価値のないものに思えてきた。
この段階では「思えてきた」程度で、確信があったわけではない。自分の可能性という欲にしがみついているうちは、あきらめの底に着かず、なかなかに苦しいもがきが続いていた。しがみつく筋力さえ失って、フリーフォールしていく先には、ただ当たり前のように地面があった。 しばらく冷たい地面に脱力して横たわっていると、重力任せの日々は非常に楽なのである。自分で立たなくてもいいからだ。そうして、飽き飽きするまで怠惰に過ごしたのちには、いつか立ちたいと思うときが来る。赤子がハイハイしてつかまり立ちするプロセスと似ている。
誰に言われなくても自ら立ち、立てば歩きたくなり、歩けば何かをつかみたくなり、手当たり次第に試したくなる。それは二度目の誕生だ。そうして一度落ちた(堕ちた)人間は、もう一度生まれる過程をたどるのかもしれない。そのときもう、「世間」という価値観は頭脳から洗い流されていた。
「私」問題は「世間問題」である。どうしてもそうなってしまう、わかっているのにやめられないのは、私たちが世間の中で育ち、その価値に染まっているためだ。いわゆる世間知による処世術はある程度必要だから、それと知って意識的に世間と付き合うことは役に立つ。しかし世間がすべてと思ってしまうことに悲劇がある。
「幸せ」の基準も、多くは世間が定めるものだ。それについて行こうとしても、社会が求める効率や生産高で人は測り切れない。最大の重荷が世間基準で課せられる「私は幸せにならなければならない」という重荷である。私の幸せ、私の人生。そればかりが頭を占めていれば、当然現実とのギャップに苦しむ。
世間から教え込まれた「幻想の私」をいったん無にしてしまう。それが瞑想の働きのひとつ。では私は消えるのか? いやそのとき現れるのが、ぼくがよく平仮名で表す「わたし」である。わたしは軽やかで、自分だけの利益を追求しない。幸せになる義務もない。たとえ人から見て不幸な〈私〉でも、〈わたし〉はそんなこと気にしない。
なぜなら、わたしはすでに幸せだからだ。「世界で一番幸せな人として歩きなさい」、ティク・ナット・ハンは歩く瞑想でそう勧める。昨日は仲間とともに秋の小道を歩いた。すべては今ここにあり、今ここにないものはなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*毎月のスケジュールはこちら(ときおり変更もあるので、必ず以下から確 認してください)
https://mindfulness-village.mystrikingly.com/schedule
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?