反復の落とし穴

おはようございます。この記事を執筆している今日は3月2日。昨日、公立高校の卒業式がありましたね。みなさんの多くは、現場で教師として、又は保護者として、あるいは兄弟姉妹を祝福するために学校に足を運んだでしょうか。それとも、コロナウイルスの流行により文部科学省から通達された「卒業式の短縮や実施方法を検討してほしい」のせいで、参加を制限されましたでしょうか。

卒業式は教師のやりがいを強く感じられる行事だと私は思っていました。いつもより綺麗に制服を着こなしていて、いつもより綺麗に並んでいて、いつもより綺麗に礼をする生徒を見ていると、なんだか急に大人になった感じがして、成長を感じてしまうんですよね。加えて、保護者の顔を見ていると、生徒一人ひとりにいろんなドラマがあったんだろうなあ、なんて考えてしまって、ウルっとくるわけです。教師はいいですよね。

今日は、タイトルにもあるとおり、反復の落とし穴について書いていきます。


反復練習に対する根強い信頼


一定の年齢になると、人は自分のアイデンティティにとって重要だと決めたことを必死に習得しようとします。それは、イルカの絵を描くことかもしれないし、好きな曲のピアノを弾くことや、両脚を広げた状態で背中を地面につけて回転する「ウィンドミル」をマスターしたい人もいるでしょう。そういうことの習得には、とにかくやってみる。何度も繰り返し、誰かに命じられているみたいに黙々と努力を続けるのがよしとされています。

反復練習に対する信頼は、昔から脈々と受け継がれてきました。成功マニュアルやガイドブック、スポーツ選手や企業家の自伝にも必ず登場します。スポーツのコーチ、音楽の講師、数学の教師は、教え子に同じことを何度も繰り返させることが多いのですが、それには理由があります。あなたがこの記事を午前中に読んでいるのでしたら、午後からフリースローの練習を100回繰り返しやってみるといいでしょう。自分の進歩が見て取れるでしょう。もう200回練習すれば、さらに進歩するでしょう。

反復練習への信頼は消え去ることがありません。私はときどき思います。新しいことを学ぶとき、子どものようにがむしゃらになれたらどんなにいいだろうと。そうなれたら、いろいろな技術を無意識にできるようになるまで練習し、身体に刻み込みます。ピアノを弾きながら英語の歌を流暢に歌うなんてこともできそうです。もちろん、十分な時間があればの話ですが。

心理学者や作家のなかには、その時間を定量化しようとする人までいます。並外れたことを習得するには練習あるのみだと彼らは主張します。彼らのいう練習時間は、正確には1万時間。この法則には抗い難いものがあります。数字そのものに根拠がなくても、それは単なる数値ではなく、反復に関係するものだと思ってしまうからです。よく耳にする、「間違えなくなるまで練習しろ」という激励の言葉にもあるように、私たちはそれが正しいと思っています。

私もたくさん練習したことがありました。子どもの頃の私は練習の虫で、勉強もスポーツもとにかく練習しました。日が暮れるまでウィンドミルを何百回も練習したのを覚えています。しかし、なかなかうまくできるようにはなりませんでした。まわりを見ると、私よりはるかに少ない時間しか練習しなかった同級生が、たいして苦労する様子もなく習得していました。彼らには、生まれつき才能があっただけなのでしょうか?秘密のコツでもあったのでしょうか?私には謎でした。私は自分の才能のなさを恨み、習得しやすくなるコツのようなものを探し求めました。しかし、自分の練習の仕方が正しいのかどうかを考えることは一度もありませんでした

それは私だけではありません。当時は、科学者たちも他の人と同じように、「練習は多ければ多いほどいい」と思っていました。心理学者の言葉で正確に表すと、「習得したいことをより身近に感じさせ、より頻繁に行わせるのであれば、どのような練習日程でもそれらを学習する力は向上する」となります。

要は、徹底した反復練習を行えということなのです。何かの技術を完全に自分のものにしたい人は、いくらかの反復練習を必ず行っています。たいてい、その量は多くて、習得した人があとから思い出すのもこの練習の部分で、習得の過程で取り入れていたかもしれない工夫や修正は思い出さないのです。


反復練習の効果を否定した「お手玉の実験」


反復の他にも何かあるかもしれないといち早く教えてくれのたのが、1978年にオタワ大学のふたりの研究者が行った実験です。

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