見出し画像

教育とは存在への激励である

文部科学省から岩手県教育委員会に出向して、岩手という土地で私が感じたことは、東日本大震災からの復興の歩みとその精神です。私が岩手に出向したのは、2020年4月という新型コロナウイルス感染症の感染拡大期で、その時点では岩手県の感染者はゼロでしたが、3月の全国一斉の臨時休校の影響もあって、混沌と混乱の只中でした。

いつ感染者が発生するのか、その場合、学校を臨時休校しなければならないのか。状況が刻一刻と変化する答えのない問題への対応に、教育委員会や学校現場は苦慮します。
それでも、岩手に出向した私が感じたのは、言葉にするのはとても難しいのですが、根っこにある何とも言えない力強さです。そして、その背景の一つにあるのが、2011年3月11日の東日本大震災だと私は感じています。

ある教育関係者は、比べることは適切ではないと前置きをした上で、コロナ禍にあっても「あの震災に比べれば家も学校も食べものもある」と話してくれます。これは、決してコロナ禍を軽んじているのではなく、あの震災の経験した自分達なら乗り越えられるという決意と、大切なものを見失わないという覚悟の表れだと感じました。

同じ職場に勤務する義務教育課長は、指導主事や教員に話をする際に、タイトルにある「教育とは存在への激励である」という言葉で結びます。私は、この言葉に、岩手の復興教育が集約されていると感じています。「子ども達は生まれてきた瞬間から尊い存在であり、生きているだけで感謝しかない。教育とは子どもの存在に感謝し、激励することだと私は捉えている」と語ってくれます。

東日本大震災では多くの児童生徒の命が失われました。また教師の中には交通事故や病気で教え子を亡くした方もおられます。そんな教え子を亡くした教員に話を聞くと「生きていてさえくれれば、それだけでいい」と切実に話をしてくれます。目の前の児童生徒が生きて、そこに存在することは決して当たり前ではないのだと。

岩手県が東日本大震災から推進している復興教育では「いきる・かかわる・そなえる」の3つのキーワードが柱になっています。最初に「いきる」を掲げて命の大切さを学ぶ背景には、あの震災によって命の大切さと存在の有難さを何よりも心に刻んだ県民の思いが原点にあるからだと思います。そして、それを一言で表したのが「教育とは存在への激励である」という言葉だと私は考えています。

話は変わりますか、学校には大きく2つの役割があります。一つは児童生徒の自立に向けた「教育的な役割」であり、もう一つは児童生徒のセーフティーネットとしての「福祉的な役割」です。
自分が岡山で教師をしていた頃は、厳しい環境の中にいる子どもも少なくなく、後者の福祉的役割の方が強く求められていましたし、経済状況や社会変化を考えれば、今後もこの福祉的な役割はますます大きくなると予想されます。
この「教育とは存在への激励である」という言葉には学校の福祉的な役割への期待も込められていと感じています。私は、文部科学省や教育委員会が次の10年に向けて取り組むべきテーマの一つが、この教育的な役割と福祉的な役割の統合と体制強化だと考えており、この言葉の持つ意味や力は益々重要になってくると思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?