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大山阿夫利神社で出会ったカエルが私に教えてくれたこと

先日、大山阿夫利神社おおやまあふりじんじゃ(神奈川県伊勢原市)へ新年の祈祷に行ってきました。
 
数年前にたまたま立ち寄った神社なのですが、それ以降、半年に一度は訪れる、今では「行きつけの神社」です。
 
ただ、行きつけとはいえ、常連ヅラするのは好きじゃないので、こっそり行って、ひっそり帰るのが私の流儀。神様が忙しいであろう年末年始はもちろん、その神社の特別行事がある日、そして土日祝日には行きません。
 
いくら神様とはいえ、相手が大忙しな時に行くのは気が引けるし、特別扱いして欲しいわけでもないので、出来るだけ人がいない時、そしてそれほど忙しくはないであろう時に行くことにしています。
 
山の上ならでは心地良く澄んだ空気に包まれた大山阿夫利神社、その景観や雰囲気に慣れ始めた頃、四度目ぐらいの参拝から、私はあることに気づきました。それは───
 
参拝後、体調に異変が起きるのです。
具体的には、異常に眠くなったり、激しく疲れてしまったり。 

もしかしたら、私が気づかなかっただけで、最初に行った時からその気配はあったのかもしれません。しかし、
 「今日は寝不足だったのかも」
「今日は来る前からちょっと疲れていたのかも」
 基本的には「気のせい」であり、気持ちの問題だと思っていました。
 
しかし四度目あたりからずっと、参拝するたびに気のせいでは済まないほどの眠気やだるさ、疲労といった症状に見舞われるようになったのです。
 
わずか2~3時間の睡眠で車を運転してアウトレットモールに出かけ、午前中から夕方までずっと歩き回っても平気な私が、一時間にも満たない神社での滞在で、尋常ではない眠気やだるさ、そして疲労に苛まれる状況はどう考えてもおかしい。
 
仮に、会うと疲れる相手(神様)だとしたら、それって相性が良くないのかもしれない。というより・・・ひょっとしたら大山阿夫利神社の神様に嫌われているのでは?
 
不安になった私は、改めて自分の大山阿夫利神社での振る舞いを振り返ってみました。
 
忙しいであろう時期を外して参拝し、長居はせず、静かに過ごしていた私。しかし───
 「もしかしたら、行きつけであることをいいことに、自分でも気づかないうちに常連ヅラしていたのかも

あるいは───
 神様なんだから一度に何十人、何百人を相手にすることなど苦ではない神様のその力を見くびって、中途半端な気遣いを見せている私に対して「バカにするな!」と神様を怒らせてしまったのかもしれない

いや───
 もともと、生理的に私のことが苦手なのかもしれない
 
男女に限らず、いくら相手から好きだと言われても、相手が自分を好意的に思ってくれていたとしても、こちら的には「すいません。ごめんなさい」なんてことは珍しくありません。
 
ただ、相手が人間なら「残念だけど、そういうこともあるよ」と受け入れることが出来ても、相手は神様です。神様から嫌われている、あるいは避けられてるのだとしたら、それはなかなか堪えます

気持ちは沈み、なんだか負のスパイラルに陥ってしまいそうです───
 
しかし、そんな時だからこそ気持ちを切り替え、物事を前向きに捉えなければいけません。そして、そんな時だからこそ忘れてはいけない言葉。

「好転反応」です。

悪い状態から良い状態へと変化する際に、一時的に悪い状態が悪化する現象のこと。もしかしたら神社でも好転反応のような現象があるのではないかと思い、「神社 好転反応」で検索してみると・・・ありました。
 
神社における好転反応、それは参拝することで身体が浄化され、新たなエネルギーが流れ込むと同時に悪いエネルギーが出ていくため、体調が悪くなることがあるという考え方です。
 
もちろん、そこには科学的な根拠などありません。しかし、病は気からというように、すべては自分の気持ち次第です。
 
神様に、好かれているとも嫌われているともとれるなら、自分が幸せな気持ちになれるほうを選べばいい。もし間違っていたら、その時はその間違いを正せばいい。
 
それ以降、参拝後に強い眠気や疲労を感じても、それは「またここに来てもいいんだ」というサインだと信じた私は、今年も無事に祈祷を済ませ、そしていつものように鳥居をくぐり、そして下りの階段付近まで来ました。
 
その時───
小さな石像が私の歩を止めました。参拝者が無事に帰れるよう「無事かえる」と刻まれたカエルの石像です。

いつも目にする「無事かえる」のカエルですが、今回私の脳裏に浮かんだのは「無事かえる」ではなく「蛙化現象」でした。
 
2023年の流行語にも選ばれた、好きな相手を突然嫌いになってしまう現象。蛙化現象は元々、心理学用語の一つです。 好きな相手に好意を返された途端、相手が嫌になってしまうことを指しますが、Z世代の流行語では、わずかなきっかけで好きな相手に対して冷めてしまうという意味として使われています。
 
そのとき思いました。
 
今、私は大山阿夫利神社をとても気に入り何度も訪れていますが、もしかしたら何かのきっかけで、あるいは何のきっかけもなく「ただなんとなく」興味を失って二度と来なくなるかもしれない。
 
そして、それは大山阿夫利神社の神様も同じ。もしかしたら、今は私のことを受け入れてくれているのかもしれないけれど、神様とてその思いは変わってしまうかもしれない。
 
すべてにおいて「永遠」などない。だからこそ、この儚く尊いこの一瞬、この機会を大事にしなければ、と。
 
きっと「約束された明日」など誰にもありませんあるとするならそれは「明日への希望」を抱くこと、ただそれだけ
 
 
明日はこうしたい、明日はこうありたい。
だから今日はこうしよう、こう生きよう、それが人生なのかもしれない。
 
大山阿夫利神社に来て、祈祷を受け、そして無事カエルに見守られながら元気に帰ることのできることがいかに尊いことなのか、そのありがたみと思いを強く感じ、
 
今日も、ここに来れてよかった
 
まっさらな空を見ながら、当たり前ではない「今」に感謝しました。

阿夫利神社駅からの眺望

その日の帰宅後、私は夜9時から朝8時まで11時間寝続けました。もしかしたら、いつも以上に大きな何かを神様から受け取ることができたのかもしれません。

あるいは日々の生活の中で、相当心が疲弊していたのか、ひょっとしたら汚れていたのかもしれません。 


 数年前に「たまたま」立ち寄った神社との縁がこの先どうなるのか、今とてもワクワクしています。 

もともとは山の上にあるカフェ茶寮 石尊さりょう せきそんに行きたかっただけなのに、気づけば、今はその隣にある大山阿夫利神社に行きたい自分がいる。

 思いもしないことが起きるのが人生の興味深いところです。 

もちろん、いいことや幸せなことばかりが起きるわけではありません。ただ、何が起きてもそれをプラスに変換できるメンタルと、好転反応なマインドでありたいと思います。

 行くたびに「癒し」と「刺激」を戴ける大山阿夫利神社、そしてカフェ「茶寮 石尊」

次回は暖かくなる頃にお邪魔しようと思っています。 


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