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結局のところ、多様性ってなに?

今日はタイトルの通り。ただのつまらないひとりごとです。
旅日記を書き終えるまで他の記事は書かない、と当初は考えていたものの、いったん休憩。
6月中には旅日記完走したい!


さて本題。
ここ数年で「多様性」って言葉をたくさん聞くようになったなーと思います。なんか年々増えている気がする。10年前の自分に聞いたら「生物多様性のこと?」って返ってくるだろうな。(中学の理科の授業で習った)

世の中でこんなにも「多様性」とか「ダイバーシティ」なんて連呼されるようになった背景は、ネット、特にSNSの普及でしょうか。
自分が芸能人や著名人でなくても意見やアイデアを発信できるようになりましたし、誰でもその情報を受け取れるようになりました。

ネットには、「こんな人がいるんだ!」「自分と似ている人に初めて出会えた!」というような刺激的な出会いの可能性が秘められていると思います。

さらに対面しなくても、タイムラグ無しでコミュニケーションを取れるのです。100年前はSFの世界の話だったんじゃないかな~。

すごい世の中になったものです。

まさに今、私がここに書いているのもSNS普及の恩恵ですね。


話が若干それたので戻すと、最近の世の中、「多様性」の使い過ぎでは?・・というか、その言葉の解釈自体が人それぞれで多様すぎて、最早不信感を持ってしまう言葉になりつつあります。これはあくまで私個人の感覚です。

「理想は多様性が認められる社会」「マイノリティの意見も尊重し、多様性を目指す」
なんて謳う政治家や会社がわんさかといます。
一見正しくて良いことを言っているように感じますが、果たして「自分と異なる価値観・背景を持つもの」を疑ったり、様子を見てしまうのは悪いことなのでしょうか?

なんでも、“多様性”という言葉を使うことによって、「受け入れないのは間違っている!!」と、自分の価値観を押し通す声が増えてきている気がするのです・・。

じゃああなたの主張の反対意見だって、多様性の一種なんだぞ!と言いたい😅
でもそういう人と話し合いするのって、なかなか難しいんですよね。

話し合うことすらできない人、理不尽なこと、世の中色々あるけれど、これが人生と思って受け入れるしかないのかなあと。

先ほど書きました、「自分と異なる価値観・背景を持つもの」を疑ったり、様子を見てしまう のは、自己防衛の一種であって決して悪いことではないと私は思っています。

ちなみに疑ったり様子を見るのは、「これっていいのかな?」と、相手の声を一度手に取って考える感覚で、差別とは違います。
そこで相手の声を門前払いしてしまっては差別になるかもしれませんが。。


なんだかまとまりのない文章で1,000字も語ってしまいましたね!
もしここまで読んで下さった方がいましたらありがとうございました!



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